魔女アンブローネとは、一体どういう人物だったのか? 彼女の経歴は謎に包まれている。ほとんど表舞台に現れることがなく、いつどこで生まれてなぜ死んだのかさえはっきりとしない。 暴君ダリオンは、絶倫王の異名に違わぬ好色家だった。 最愛の妻アクセラ妃を亡くして以来、一度抱いた女とは二度と寝ないと誓っておきながら、魔女アンブローネとの関係だけは相変わらず長続きしていた。 服従を強いられた臣下たちが心ならずも膝をついてかしずく中、鎧を着たまま玉座にふんぞり返った暴君ダリオンのかたわらには、いつも魔女アンブローネの影があった。 三十路を過ぎてそろそろ四十歳になる年齢にもかかわらず、いつまでも二十歳のころのように若々しいので、宮殿に出入りする役人たちのあいだでは、きっと何かしら健康を保つための秘訣があるに違いないと噂された。 アンブローネ自身、命を授かりながら産まれることなく死んでしまった水子の霊をまつっており、不老不死や生まれ変わりといった伝承を信じていたふしがある。 家柄や血筋によらず一代限りで出世した魔女アンブローネは、成り上がりであるがゆえにうぬぼれが強く、どうせ嘘だとわかっていながらそれを面白がるような向きがあった。 たとえば、お偉方で集まって会議をする時などは、きちんと最後まで相手の話に耳をかたむけてから、多少事実と食い違っていても厳しく追及したりせず、だったらあなたはどうするべきですかと質問を投げかける。 命知らずにも手柄を立てた若者には過大とも思えるほどの評価を、機会を与えても結果を残せなかった年配にはそれなりの待遇をといった具合に、しばしば虚偽の報告が入り混じる論功行賞に関しても、望みのままに地位や名誉を与えている。 反旗をひるがえして従属を拒んだ諸侯に対しても、到底飲めない理不尽な要求を吹っかけておきながら、今度はどんな言い訳が聞けるかしらと楽しみにしていた。 素直に謝罪されるとむしろ興ざめして、もういいわと拍子抜けするくらいあっさり許した。 そんな気まぐれでつかみどころのない性格だったから、文民に認められなければ昇進を得られない軍の将官たちは、何とかして彼女のご機嫌を取ろうとこぞって花束を贈った。
「和睦の提案ですって?」 使いの者からじかに自分宛ての書簡を手渡されたアンブローネは、半信半疑ながらも文面に目を通したあと、読み捨てるように一笑に付した。 それもそのはず、何の前触れもなくいきなり兵を挙げて攻め込んできたのはエゼキウス王だ。国境を侵されて防衛する側としては、もとより否も応もなく戦争は避けられない。 これまで、どうにかこうにか事態を収拾するべく何度も交渉を持ちかけてきたのに、相手方は黙りを決め込んで返事も寄越さず。それがここに来て、どういうわけか向こうから停戦を申し出てきた。 「我が君ダリオン様。反撃するならば今こそ好機です」 「よし、この時を待っておった。久しぶりの戦に腕が鳴るわい。アンブローネよ、留守は任せたぞ」 「いいえ、わざわざ我が君がご出陣なさるまでもありません。万が一のことがあってはなりませぬゆえ、ダリオン様は居城にお残りくださいませ」 「何だと?」 「おそらくエゼキウス王は、すでに虫の息。もう長くはありますまい」 暴君ダリオンは、おのが腹心である魔女アンブローネに対して全幅の信頼を置いていた。百発百中とは言わないまでも、彼女の占いはおおむね当たると信じていた。 さりとて、政治や外交ならばまだしも、いざ戦争となれば知恵を絞らずとも勝てる自信がある。たとえ負けるとわかっていても戦わずにはいられないのが、暴君ダリオンという人物の長所でもあり短所でもあった。 実際、これまでも何度となくそうした状況をひっくり返してきたからこそ今がある。 「僭越ながら、ここはかの者に初陣の機会を与えてみてはいかがでしょう?」 「と言うと?」 「ダリオン様の甥っ子に当たるゲリオンなる若者は、あれ以来、謹慎を命じられてすっかり反省しております。女人との交わりを断って洞窟にこもり、姦淫はおろか自涜さえも禁じているとか」 「あいつは駄目だ。未成年のくせに酒を飲んで酔っ払い、あろうことか神殿の巫女に乱暴を働いた奴だぞ? あんなろくでなしは将来絶対ろくな大人にならん」 「この世になくてはならぬ男というのは、時々あってはならぬ行いをするものです。それこそ、若かりしころの旦那様がそうであったように」 「おまえがそこまで言うなら、好きにするがいい。ただし、余は一切あずかり知らんぞ」
「アンブローネ様!」 城下を行進してお披露目を済ませた馬揃えの騎士たちが、鎧兜をかぶったり旗を背負ったりして戦支度を急ぐ中。 目立って若輩に見える二十歳かそこらの青年が、通りすがりの軍師を呼び止める。 「こたびの初陣、親父殿に口添えしてくれたのはあなた様だと聞いた。何と言っていいかわからないが、とにかく感謝を申し上げたい」 御曹司ゲリオンは、馬を引きつつ兜を脇に挟みながら、いまだ生え揃わぬ坊主頭を照れくさげにかきむしる。 「あの言いつけはきちんと守っているかしら?」 「もちろんだとも。俺はもう反省して心を入れ替えたんだ。あれからセックスはおろか、オナニーさえ一度もしていない」 「嘘をついてもわかるのよ? ここを触ればね」 アンブローネは、今しがた軍議を済ませて幕下から出てきたばかりだった。かさばる書類を抱えたまま、おもむろにゲリオンの股間へ手を伸ばす。 いきなりズボン越しに急所をつかまれたゲリオンは、うっと小声でうめいて腰を引いた。一体何をするんだ――と逆上しかけて、アンブローネがくすくすと笑っていることに気づく。 「ふふっ、冗談よ。ちょっとからかってみただけ」 何を隠そう御曹司ゲリオンは、人並みよりもあそこが小さい貧根の持ち主だった。 だから、物心ついたころからいつも自分のことばかり気にしている。 周りの誰かがこっちを指さして笑っていると、きっと陰口を叩いているに違いないと思い込んでしまう。とくにそこに女子供が混ざっていると、なおさら我慢がならなかった。 もちろん、そんなもの他人と比べても仕方がないことはわかっている。けれども、いくら逆立ちしてみたところでおへそにも届かない。 誰にも負けたくないという意地があるからこそ、これまで自分の弱点をひた隠しにしてきたのだ。 そしてふと気づいたら、何の抵抗もできない少女を無理やり犯していた。 「待ってくれ、アンブローネ様!」 ゲリオンは、我知らず固く握りしめていた拳をほどき、立ち去りかけたアンブローネをふたたび呼び止める。 「どうしてあなた様は、こんな俺のことをそこまで気にかけてくれるんだ? お腹を痛めて産んでくれたじつの母親でさえ、もう顔を合わせてもくれないというのに」 「さあ、なぜかしらね」 地下牢に囚われていた賢者グリフィムを処刑せずに釈放した時もそうだったが――魔女アンブローネには、みずからの手で多くの命を奪っておきながら、罪人に対して慈悲をほどこす意外な一面があった。 それでいて、たとえ自分の部下であろうとも命令に逆らえば容赦なく厳罰に処する冷酷さも持ち合わせていた。 「もしも俺がこたびの戦いで、あの憎きエゼキウス王の首を討ち取ることができたら……」 「そんなに私としたいの?」 「嘘でもいいから約束してくれ。俺にはもう、帰りを待ってくれる人なんていない。だから、命をかけて戦うための理由が欲しいんだ」 「女というのは、勝利じゃなくて敗北を求めるものよ。ご褒美をおねだりしているうちは、まだまだ坊やね」
魔女アンブローネと思しき人物が初めて物語の中に登場するのは、当時からさかのぼっておよそ十五年前――年齢で言えば二十代半ばのころに当たる。 簾中に隠れて内密にクライオ王子を出産したアクセラ妃は、産褥の重さからなかなか起き上がれず、しばらく寝たきりで過ごす日々が続いた。 生後間もない我が子を手放してしまった罪悪感や喪失感もあってか、粥をこさえたり薬を煎じてもほとんど口にしなかった。 そこで北方オスルタイン公国の領主であるオルスター卿は、お抱えの侍医を下がらせて怪しげなまじない師を呼ぶことにした。 「誰ぞ、魔女はおらぬか。精霊を降ろして回復を祈ってくれ」 ここで言う魔女とは、おそらく儀式において祭司を担った女性――とくに分娩に際して赤子を取り上げる産婆や、生殖を伴わずに性交を指南する夜伽衆を指していたと思われる。 当時の女性がおおむね早婚だったことを考えると、黒衣をまとって素性を隠していたアンブローネも、この時点ですでに既婚者もしくは未亡人であった可能性が高い。 「つかぬことをお伺いしますが、奥方様はまことに流産でございましょうか?」 「世の中には、他人に妻を寝取られて喜ぶ男もいると聞く。そなた、浮気について何か心当たりはあるか?」 「……まさか、実際に現場を目撃なされたので?」 「いいや、そういう男は想像するだけでも興奮するのだよ。よもやあの貞淑な妻が、わしに隠れて淫らな行為に及んでおったと思うとな」 「今のお話は、何も聞かなかったことにいたします」 「頼む、この際だからはっきりとさせておきたい。あの赤ん坊の本当の父親は誰なのだ?」 「お望みとあらば占って進ぜますが、答えを知ってどうなさるおつもりで?」 「わしは、ついに目覚めてしまったのかもしれん。おのれ自身の中に秘められた、大いなる神の声に……」 のちに皇帝暗殺の疑いをかけられて反乱を起こすオルスター卿は、帝国の評議会に席を列する諸侯であり、信仰のために童貞を捧げた神官でもあった。 もともと貴族の名跡を継ぐつもりがない次男だっただけに、いささか気弱で優柔不断なところがあり、困ったことがあれば何でもかんでも身近な者に相談した。 愚かにも正直すぎる人物だったためか、敵味方を問わず友人が多く、兵士たちからの信望も厚かった。 ところが、ちょうどアクセラ妃の妊娠が発覚した時期を境にして、おのが主君である皇帝アクセル一世への忠誠心を失い、あからさまな叛意を抱くようになる。
「今だから打ち明けるけど、内緒にしてくれる?」 ドレスの胸元を寄せて上げてきつく背中を締めたアクセラ妃は、化粧台の前に座って髪をつくろいながら、合わせ鏡に向かって話しかける。 「じつを言うと、一度きりではなかったの。いけないことだとわかっていたけど、何度も同じ過ちを繰り返したわ。いつかきっと見つかってしまうんじゃないかっておびえながら」 「お相手はお一人で?」 「もちろんよ、嘘じゃないわ。それだけは信じて」 「夫に隠れて浮気をした妻は、みな口を揃えてそう申します。あるいは、その逆もまたしかり」 「ひょっとして、おまえにも身に覚えがあるの?」 「ご想像におまかせします」 持ち前の優れた手腕を買われてアクセラ妃の腰元となったアンブローネは、いびつな短剣に毒を垂らして懐に忍ばせる。 「王家の血を継いだ女は、特別なのよ。たとえ親や兄弟であっても、健康な子を産むことができる。それこそが、始祖の一族と呼ばれる所以」 「お父君である皇帝陛下が、そう仰られたのですね? そして黙っていろと口止めされた?」 アクセラ妃は、両手で顔をふさいで流々と涙をこぼす。 「うちの旦那は童貞だから、男のくせに男であることを恥じている。女のことを恐れているから、近づくのは容易ではないわ。おまえほどの手練れなら、こっそり寝室に忍び込んで眠らせることができるはず……」 窓の外では、すでに煙が上がっていた。天高く晴れ渡った空に火の粉が舞い、炎に巻かれて逃げまどう民衆の悲鳴が聞こえる。 かの偉大なる皇帝アクセル一世が崩御したあと、皇太子アクセル二世から反乱軍討伐の命令を受けたダリオン将軍は、王家の御旗を借りてすさまじい勢いで北方へ迫ってきた。 僭称皇帝の汚名を着せられて天下を敵に回してしまったオスルター卿は、何度か戦いを挑んだもののことごとく惨敗を喫し、とうとう最後の砦まで追い詰められた。 アンブローネは、アクセラ妃からダリオン将軍へ宛てて密書をしたため、渡り鳥を飛ばして助命を乞うた。 その手紙につづられていた内容は、男心をくすぐる甘美な誘惑だったのか、はたまた領主を暗殺して城を明け渡すための手引きだったのか。
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