「我こそは、闇の力に目覚めし魔王の化身なり。みずからの戒めとして右手を縛り、愛する人のために禁欲を誓った」 「ならば、左手を使ってこけばよいではないか。どうせまだ一度も女とやったことがないのだろう?」 「この左手は、おのが意思に反して言うことを聞かなくなった右手を止めるためにある。貴様こそ、そうやって馬の手綱ばかり握っておっては、ろくに金玉の裏もかけんのではないか?」 「抜かせ、小さいゲリオンめ! 男の誇りをかけて、いざ尋常に勝負せい!」 「ふん、半端者の相手など片手だけで十分だ。せいぜい糞を漏らさぬよう、尻の穴をきつく締めておけ」 東方のエゼキウス王率いる連合軍と、それを迎え撃つ西方ダリオン軍との決戦は、雨期が明けて嵐が過ぎ去った炎天下の猛暑に行われた。
皇太子アクセル二世を擁して連合軍の盟主となったエゼキウス王の帝都奪還計画は、以前から周到に準備されていた。 ありったけの武器や兵糧を積んだ船団を洋上に並べたうえ、賊の討伐という名目で国境付近まで軍を動かし、宣戦布告なしの奇襲という形で侵攻が始まった。 エゼキウス王はまず、中つ海を越えて上陸の足がかりを築くべく、遠回りながらも海岸線に沿って次々と港を制圧していった。 降雪により行軍の中止を余儀なくされ、さらに嵐に見舞われて艦隊の大半を失いつつも、冬が終わるころにはすでに帝都エルドランドの目前まで迫っていた。 ところが、暴君ダリオンを倒すためにエゼキウス王へ味方すると思われていた聖女フローディアが、どちらの陣営にもつかず冷ややかな態度を示したことで、だんだんと雲行きが怪しくなってくる。
「早くお逃げください、聖女様!」 晩年のエゼキウス王が思い描いた壮大な夢想の中には、エール帝国の首都をエルドランドから東方の都アスタリスクへと遷都し、それにともなって遠見の塔にある聖座を別の神殿へ移す計画も含まれていた。 「もうじき戦争が始まります! いずれここにも敵の兵士が……」 「それは脅しですか?」 神殿に仕える巫女が見知らぬ男どもに乱暴され、油をかぶって焼身自殺してからというもの、聖女フローディアは、茹で釜が煮えたぎるほどの怒りに震えていた。 神に許しを乞いながら、目の前で焼かれて死んだのだ。それなのに罪を犯した者たちは、法で裁かれることもなく、今もなお何食わぬ顔でのうのうと生きている。 「祭壇の炎を絶やさずに守り続けることが、先代から託された私のつとめ。たとえこの身が焼かれようとも、逃げるわけにはいきません」 「説得が無駄ならば、力づくでお連れするよう仰せつかっております」 「できるものならやってみなさい」 聖女フローディアを救出するべく、闇夜にまぎれて神殿の中へ忍び込んだ不届き者たちは、燃えさかる衣服を脱ぎ捨てて裸になり、大声で叫びながら塔の屋上から飛び降りた。 「これが、天から示された答えです。すべての罪は罰されてこそ許される」
打倒ダリオンの旗印のもとに帝国各地から馳せ参じた諸侯たちは、エゼキウス王の呼びかけに応じて戦場へ向かう途中で、好き勝手に悪事を働いていた。 行きがけに女子供を略奪しようと集落へ立ち寄ったところ、たまたま居合わせた法官と揉め事を起こして刃傷沙汰になり、ついつい皆殺しにしてしまったのだ。 死体を見られると困るので、ついでに人家や田畑もろとも焼き払った。さらにそれを敵軍の仕業だと偽り、ますます世間からひんしゅくを買った。 この虐殺事件に関与していると疑われたのが、当時エゼキウス王の麾下に属していた猪人族の傭兵部隊だった。 彼らは、遥か東方の荒野からやってきた野蛮な部族で、ほんのつい数年前まで帝国と敵対していただけに、ずいぶんと評判が悪かった。 しかしながらその噂もまた、窮余に追われた東軍がでっち上げた嘘だった。 味方から濡れ衣を着せられた誇り高き猪人族の戦士たちは、もう帝国人どもの姑息なやり方には我慢ならんと憤慨し、仕返しに兵糧や軍馬を盗んで故郷へ帰ることにした。 「わらわの王子様はどこじゃ! 一目でよいからアクセル様に会わせておくれ!」 「そんな悠長なことを言っている場合ではありません、姫様! 一刻も早くここから逃げなければ!」 遠からず皇太子アクセル二世との結婚が決まっていた猪人族の姫ポリネシアは、まだ指を折らねば歳も数えられぬ可愛らしい幼女だった。 当時、花嫁としてふさわしい品格を身につけるため、西軍に属するセリルド家という名門貴族の養女に迎えられていた。 その名門貴族セリルド家の娘にして、ポリネシア姫にとって義理の姉に当たるセリルダは、アクセル王子を探し求めて単騎で戦場を駆け抜ける。 「今に見ておれ、逆賊ダリオンめ。いつぞやの恨み、忘れたわけではないぞ」 このころ、母方の伯父であるエゼキウス王と仲違いして縁を切ったアクセル王子は、港から奪った船で海へ乗り出して自由気ままに旅をしていた。 決戦当日の一週間ほど前まで南方に逗留しており、その後ふたたび姿を消している。
「どうやらゲリオンは、案外うまくやっているようね。このまま耐え続ければ、エゼキウス王の命運は必ず尽きるはず」 アンブローネは、やはり自分の考えに疑いはないと確信していた。 帝都エルドランドの近郊にて、両軍が隙を窺って睨み合いを続ける。双方ともに有利な地形に陣取っており、容易には動けない。 そんな中、若き御曹司ゲリオンが名乗りを上げて一騎打ちを申し出る。 「童貞を貫くことこそ我が道と見つけたり! 止められるものなら止めてみよ!」 ところが、いくら思いつく限りの汚い言葉で罵っても、エゼキウス王はまったく動じない。 次から次へと腕に覚えのある武将を立てては、地べたにひれ伏すのを眺めるばかり。屋根つきの牛車に腰かけたまま、日陰に隠れてうちわをあおいでいる。 きっとあれは、張りぼての人形に違いない。だとすれば、本物のエゼキウス王はどこにいるのだろう? もしもこれが、巧妙に仕組まれた罠だったとしたら……。 「そろそろ雨期が明けるころかしら。水門を下ろして、川の流れをせき止めなさい」 「なるほど、水攻めでございますな?」 「あの布陣を見るに、敵の狙いはおそらく時間稼ぎでしょう。正面に見える部隊は、あくまで揺動のための囮に過ぎない」 「つまり、どういうことです?」 「運河の水位が低くなれば、奴らの艦隊は川を上れないわ。帝都エルドランドへの攻撃だけは何としても阻止するのよ」 「ですが、そんなことをすれば城下周辺の田畑が干上がってしまいます。収穫間近の作物が枯れてしまったら、一体どれだけの民が飢えに苦しむことやら」 「背に腹は代えられないわ。私としたことが、まんまとしてやられた」 結論から言えば、アンブローネの心配は杞憂に終わった。 エゼキウス王の正体を偽者だと見破ったがために、かえって敵の思惑を深読みしすぎてしまったのだ。 「ちっ、先手を取られたか。仕方がない、ここは一旦引き上げるぞ」 両軍のいざこざに乗じてひそかに暴君ダリオンを暗殺しようと考えていたアクセル王子は、すんでのところで進路の変更を余儀なくされた。
「私は、おのれの考えを過信するあまり、誤った判断を下してしまいました。みずから責任を取り、役職を辞して宮廷を去りたく存じます」 「たわむれを申すな、アンブローネよ。何はともあれ、エゼキウス王との戦いには勝ったのだ。それもこれも、おまえの見事な采配があったればこそ」 暴君ダリオンは、魔女アンブローネを引き留めるべく再三にわたり翻意をうながした。 望みがあれば何でも与えるし、おのれに至らぬ点があれば悔いあたらめるとまで言った。 しかし、それでもアンブローネの決心は変わらなかった。 暴君ダリオンとて、いまや一族郎党を率いる豪族の頭領ではない。いくつもの国家や民族からなる大帝国の君主なのだ。 たたでさえ愛人関係にあるのではないかと疑われているのに、名だたる諸侯らを差し置いて自分の側近ばかり重用するわけにはいかない。 魔女アンブローネが下したこの決断の背景には、暴君ダリオンの後継者をめぐる宮廷内の不和があったとも言われる。 アンブローネは、旧王朝を支持する派閥を排除して安定した支配体制を築くべく、かねてより血筋を重んじて御曹司ゲリオンを跡継ぎに推していた。 その一方でダリオン自身は、過去に不祥事を起こした件もあって、自分の甥に当たるゲリオンをあまり好ましく思っていなかった。 若かりしころの自分と似ていて我が強く、それでいて曲がった根性を持っており、いずれ手がつけられなくなると感じていたからだ。
「東国の大王エゼキウスの首、このゲリオン様が討ち取ったり!」 「ふふふっ、残念だったな。貴様が倒したのは偽者のエゼキウス王様だ。まんまと騙されるとはまぬけな奴め」 「な、何だって……!? だとしたら本物はどこに……?」 いつものように日が暮れて、両軍ともども自陣へ引き上げるころ。 御曹司ゲリオンが当てずっぽうに放った矢が、山なりの孤を描いてあさっての方向へ飛んでいき、くしくも御車を引いている水牛の尻に突き刺さった。 牛車はたちまち暴走して横倒しになり、エゼキウス王もろとも泥沼へ突っ込んだ。また別の話によると、ぜんまい仕掛けのからくりが壊れてぽろっと首が転がり落ちたとか。 そんな与太話はさておき、これまで敵のみならず味方をもあざむいていた茶番劇の舞台裏が明るみにさらされ、エゼキウス王率いる東軍はとうとう総崩れとなった。 「おのれ、逃がしてなるものか! 愛しきアンブローネ様のため、俺はどこまでも追いかけるぞ!」 御曹司ゲリオンに率いられた西軍の主力部隊は、敵の混乱に乗じて夜襲を仕掛けた。そして両軍の戦いは、ほとんど一晩で決着がついた。 手綱や鞍と並んで重要な馬具のひとつに、あぶみというものがある。これは乗馬に際して騎手が足をかけるための道具だ。 一体いつごろ発明されたのかはっきりとしないが、そもそもは馬に乗って逃げながら弓を引く東方民族がもたらした技術だと言われている。 彼らは一般的な帝国人と比べて、おおむね身長が低くて足が短かった。 ちょうどこのころ、猪人族の台頭をきっかけに西方にも伝わったものの、鉄は強しと信じるばかり革や布の装備を軽んじてきた帝国には、まだその道具をうまく使いこなせる騎士も、乗り手に合わせて仕立てられる職人もいなかった。 御曹司ゲリオンを筆頭とするダリオン軍古参の精鋭騎兵は、馬上戦闘において無類の強さを誇った。 座ったままの姿勢から繰り出される攻撃と、両足でしっかり踏ん張った状態から振り下ろされる攻撃では、まるで威力が違う。 当時の人々の常識からすれば、まさに人馬一体のごとく映ったことだろう。 黒塗りの鎧をまとった最強の騎馬軍団が、蹄を鳴らして怒涛のごとく迫ってくるのだから、その恐ろしさたるや計り知れない。 「くそっ、このまま土産もなしに手ぶらで帰れるか! あの憎きエゼキウス王の首を持ち帰り、アンブローネ様に喜んでいただかなければ意味がない」 帝国全体を巻き込んだ東軍と西軍による大戦争の結果、エゼキウス王は生死不明のまま行方知れず。皇太子アクセル二世の所在もわからずじまい。 ろくに戦いもせずに敗れた脱走兵たちは、武器を持ったまま鎧兜を脱ぎ捨てて野山へ隠れた。 ここから、残党狩りが始まる。
「ゲリオン様!」 「どうした? エゼキウス王の居場所が見つかったのか?」 「人里離れた山の中に、焚き火の跡を発見しました」 「よし、誰にも言うなよ。手柄はすべて俺様のものだ」 馬の手綱を引いて半身だけ振り返った御曹司ゲリオンは、親戚の兄弟たちを尻目に隊列から外れると、数名ばかりの従者を連れてさっそく山賊の退治へ向かう。 日暮れ間近のほの暗い森の中、たいまつを焚きつつ藪蚊を払ってさらに山奥へ進んでいく。 落ち葉を踏んで足音を立てぬよう、吐息を白くしながらそっと茂みをかき分け、敵に気づかれる寸前のところまで接近する。 「へへへっ、そこのお嬢さん。こんなところで何をしてるんだい?」 すると、見るからに薄汚い身なりをした追い剥ぎどもが、どこぞの家の使用人らしき娘を取り囲んでいる。 「おっと、いいもん持ってるじゃねえか。乱暴されたくなかったら、大人しくそのお宝を寄越しな」 「この剣は、わたくしの命よりも大切なものでございます。何が何でもお渡しするわけには……」 外套のフードを剥ぎ取られ、とがった耳を隠しきれなくなったエロナは、鞘ぐるみの剣を抱えたまま腰を抜かして尻餅をつく。 両足をばたつかせてあとずさり、切り株を背負ってじりじりと追い詰められていく。 「一体何なんだ、俺自身から湧き上がるこの邪悪な力は……」 人知れず手のひらをぐっと握りしめたゲリオンは、いても立ってもいられず単騎で躍り出るなり槍で突き伏せた。 「くたばれ、下衆どもめ!」 「ひええっ! お助けを!」 あとから少し遅れてやってきた家来たちが、まだ息のある野盗どもの人相をあらため、問答無用でとどめを刺す。 ぎゅっと目をつぶったまま血飛沫を浴びたエロナは、ほんの一瞬のうちに起こった出来事に戸惑いつつも、はだけたスカートを直して立ち上がる。 「危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました。……あの、あなた様はもしや童貞ではありませんか?」 間抜けと言うべきか、拍子抜けと言うべきか、見かけによらず意外と肝が据わった娘だった。 足元に首なしの死体が転がっていても、さして何とも思わないらしい。 「いや、拙者は童貞を捨てた男だ。今もなお、それを取り戻すために探し続けている」 ――さらばっ! 革袋からごくごくと水を飲んで放り投げたゲリオンは、馬の腹を蹴って一顧だにせず駆けていく。 「あのお方はきっと、ご自分にとって何かとても大切なものをなくされてしまったのね。いつの日か見つかるといいのだけれど……」 エロナは、遠慮がちに届かぬ腕を伸ばしつつ、二歩三歩と追いかけて途方に暮れる。 手のひらを重ねた胸のうちに、今まで感じたことがないときめきを覚えながら。