クライオは、矢筒を背負ったまま弓をからげて、山間の谷底を流れる川で水を汲む。つづら折りの曲がりくねった石段を辿りながら、毎朝欠かさず霊峰へ足を運ぶ。 「ああっ、女神様……」 焚き火に薪をくべて祭壇の炎を拝んだあと、両手でぎゅっと雑巾をしぼり、台座に据えられた女神像を清める。 「なんて美しいんだ……。ものすごく興奮してしまう……」 大理石の巨岩から削り出された実寸大の石像だった。儚げな微笑をたたえる顔の造形。豊満な体型ながらも細くくびれた理想的な頭身のバランス。人肌を思わせるしなやかな曲線と、継ぎ目のないなめらかな触り心地。 とくに衣からはだけた胸乳の谷間や、あえて不自然な姿勢をした腰つきなどは、いかにもなまめかしい女性的な特徴が見事に表現されている。 「もしかして、クライオ様ですか……?」 するとその時、おそるおそるといった様子で後ろから声をかけてくる少女があった。 「そういう君は……?」 「申し遅れました。わたくし、大賢者グリフィム様よりお役目を仰せつかり、遠路はるばる帝都エルドランドからやって参りました、召使いのエロナでございます」 エロナは、逆巻く風にさらさらとした髪をなびかせつつ、両手で旅行鞄をさげたままお辞儀をする。 年齢的にはほぼ同世代だが、クライオよりもエロナのほうが少し早生まれではあった。 それでなくてもエロナは、子供のころから使用人として働いていたし、一足先に旅へ出て見聞を広めたこともあって、第一印象としてはずいぶんと大人びていた。 「ところでつかぬことをお伺いしますが、あなた様は童貞でいらっしゃいますか?」 「なぜそんなことを聞く? たった今、初めて会ったばかりなのに」 「それは……」 「俺が童貞であろうとなかろうと、君には関係のないことだ」 クライオは、ぼさぼさの前髪をかきむしってうつむき、そそくさと足早に立ち去る。 「お待ちくださいませ、クライオ様! いいえ、童貞王子!」 北方山脈の霊峰にたたずむ女神像は、ほかの場所にある石像と違い、なぜか一体だけ別の方角を向いている。 辺り一帯を険しい山々に囲まれた北の大地には、一日じゅう太陽が昇らない極夜があり、夏至ではなく冬至の方角を指し示していたのではないかと考えられている。 今はもう、長い年月を経るうちに風化してしまい、頭部と胴体だけしか残っていない。本来その両腕に抱かれているはずの赤ん坊も、依然として見つかっていない。
「クライオ様! こんなところにいらしたのですね?」 「また君か。今度は何の用だ?」 「先ほどは大変失礼いたしました。突然押しかけてしまい、ご迷惑であることは重々承知しております。ですが、せめてお話だけでも……」 「もう帰ってくれ。ここは俺の家じゃない」 クライオは毎年、地元の百姓たちが畑の収穫を終えて慌ただしく冬支度を始める時期になると、山麓にある寒村まで下りてきて鍛冶場を借りた。 集落共用の煉瓦窯や砥石台を使って、自分の狩猟道具を手入れするためだ。 獲物を解体する際に使うナイフ、弓の矢じりや返しつきの釣り針、木を倒して枝を切るための斧や鉈など、根無し草とはいえ何かと持ち歩くものは多い。 この共同窯と呼ばれるものは、帝国の文化に共通する代表的な施設のひとつで、パンやスープなど日常的な料理を作る際にもよく使われた。住民同士の結びつきが強い田舎の集落のみならず、森林が少なくて薪代が高くつく都市部などでも多く見られた。 「クライオ様は、すでにご結婚なされておいでで?」 「いや、まだだが」 「でしたら、将来そのご予定はおありで? 現在お付き合いされている恋人はいらっしゃいますか?」 「だから、どうしてそんな質問に答える必要がある?」 人里離れた森の中でひっそりと暮らす先住民にならい、半猟半農の生活を続けるクライオの日常は、いつも今日の食料や寝床を探すところから始まった。 毎年夏になると山で狩りをし、冬になると凍らぬ川で釣りをする。たまに面白そうな種を拾ってきて植えてみたり、干した肉やなめした皮を元手にして、集落の住民へ物々交換を持ちかけたりする。 地主から畑を借りて小作農になるよりは気楽だが、それでも明日のことを考えると遊んでいる余裕はない。自分の土地を持たないのでまともな家は建てられず、雨風にさらされてひもじい思いをすることもある。 「ということは、やっぱり童貞なんですか? 童貞なんですよね?」 「いい加減しつこいな。だったら何だというんだ」 「そんなに恥ずかしがらなくてもよろしいじゃありませんか。だって男の子は、生まれた時からみんな童貞なんですから。それならそうと正直に仰ってくださいな」 「べつに隠しているわけじゃない。そんなふうに馬鹿にされたくないだけだ」 エロナは、にやけた口元を隠してむふふっといやらしく笑った。いささか気を許したのか、普段通りの言葉遣いをまじえて親しげに接してくる。 それでもクライオは、まるで意に介さず鬱陶しげに汗をぬぐい、ひたすら金床めがけて鉄槌を振り下ろす。真っ赤に焼かれた延べ棒から火花が飛び散り、エロナは慌てて引き下がる。 「セックスだ」 「えっ?」 「俺たちには、どんなにしたくてもできないことがある」 「それってつまり、法律で禁じられた犯罪のことでしょうか……?」 女人と交わり禁忌を犯すこと。これすなわちセックスなり。 これは、精霊術の師であるウルリクという男から教わった言葉だ。 一年を通して氷に覆われた極寒の大地で生きる北方民族の男たちは、自分たちのことを狼人と呼ぶ。群れからはぐれて孤独にさまよう一匹狼だ。 大きく分けて、トナカイの群れを追いかけて犬ぞりを引く遊牧系と、カヌーに乗ってクジラやアザラシを仕留める狩猟系がいて、警戒心が強く好戦的な部族として知られた。 「そもそも、俺はもう童貞なんかじゃない」 「ええっ……!?」 「そこまで大げさに驚かれると、むしろ心外だな」 クライオは、普段からいつもこんなふうによく軽口を叩いた。ずっと森の中で誰とも会わずに暮らしてきただけに、心の中で思ったことがついつい口に出てしまう。 「ここじゃ周りに人が多くて話せない。答えが知りたければ、黙ってついてこい」 その意味深な物言いに一抹の不安を覚えつつも、エロナは負けじと勇気を振り絞って覚悟を決める。 川の流れをさかのぼって尾根を登っていった先に広がるのは、手つかずの自然が広がる未開の森林だった。 途方もない年月をかけて育った大木は見上げても届かず、崖から落ちた岩がごろごろ転がっていて足場もすこぶる悪い。 いつの間にか遠ざかってしまったクライオの背中を追いかけて、エロナも置いていかれないように必死でついていく。 一応は立ち止まったまま待ってくれているようだが、ぐずぐずしているうちに刻々と日没が迫ってくる。
現在と違ってまだ世界全体の地図が明らかになっていなかった時代、文明が及ばぬ未開の土地には暗闇が広がっており、未知なる危険な生物が棲んでいると考えられていた。 そうした人間の生活に適さない場所には、太陽の光をさえぎる瘴気なるものが漂っていて、それを誤って食べたり飲み込んでしまった者は、動物のように理性を失って凶暴化すると信じられていた。 昔の人々は、これを魔境と呼んで恐れた。 「ほら、食え。きのこだ」 「きのこ……?」 クライオは、河原にある石ころでかまどを作って火を焚いた。 いつも狩猟小屋を張って獲物を待ち構えている山奥の水辺だ。人の気配がすると動物が寄ってこなくなるので、今まで誰にも場所を教えたことがない。 森の中を見渡せば、すでに真っ暗だった。落ち葉をそよがす風の音と、渓流のせせらぎのみが聞こえる。土地勘がなければ迷って帰れないだろう。 北方山脈を流れる大河の水源は、冬になっても凍らない。川の底からふつふつと温泉が湧き出しているからだ。そのせいで辺りは不気味な霧に包まれ、見通しが悪かった。 「これは何という生き物でしょうか? もう死んでおります?」 「だからきのこだ。木の根っこから生えてくる子供みたいなもんで、そんなにじーっと見ておっても動かんぞ」 「なんてひわいな形をした食べ物でしょう。それに何だか、とってもいやらしい匂いがいたします。こんな得体の知れないものを食するなんて……」 エロナは、舌を出して先っぽだけぺろりと舐めた。おそるおそる口を開けてくわえてみると、思いのほか弾力があって何とも言えない不思議な食感がする。 「昨日の夜、またあの夢を見たんだ」 クライオは、拾った枝で焚き火を突っついて煙たがりながら、ぶっきらぼうに語り始める。 「いつものようにテントの中で寝袋をかぶって眠っていると、真夜中を過ぎたころ、ふと枕元に母さんが現れる。夢の中の俺は、なぜか子供のままだ。金縛りにかかって身動きが取れない」 「クライオ様のお母君と言うと、まさか、無念のうちに非業の死を遂げられたアクセラ妃の怨霊が……?」 「それから服を脱いで裸になった母さんが、上からのしかかるように覆いかぶさってくる。これから一体何をされるのか、俺は恐ろしくて目を開けることができない。ぞくぞくするような寒気を感じながら、ばれないように必死で寝たふりをする。そして、ふと目が覚めたら……」 そこまで言って、クライオはきつく口をつぐんだ。地べたにあぐらをかいたまま、もじもじと恥ずかしそうに股間を隠している。 「……もしかして、お漏らしをされてしまった?」 「ああ、その通りだ。どうしてわかったんだ?」 「いいえ、何となくそんな気がしたもので……」 エロナは、耳の後ろに髪をかけつつ気まずくなって目をそらす。 「つまり、あくまでも夢の中での出来事なのですね? 現実の世界では、まだ一度もそのような行為に及ばれたことがないと?」 賢者グリフィムからエロナの手に託された書物の中には、未亡人アクセラ妃の隠し子であるクライオ王子が、捨て子として修道院に預けられたことが記されていた。 血縁上の父親に関しては相変わらず不明だが、その出自を疑われた理由については詳しく書かれている。 かの偉大なる皇帝アクセル一世は生前、自分の娘であるアクセラ妃と情を交わすために、何かしら理由をつけてはたびたび北方へ足を運んでいた。 そしてある日、行きがかり途中まで同行していたオルスター卿と別れた直後、待ち伏せに遭って無惨にも誅殺された――と、賢者グリフィムは自身の見解を述べている。 「ひょっとして、君は魔女なのか?」 「えっ?」 「たった今、俺のおねしょを言い当てたじゃないか」 「そんなの、たまたまですよ」 「たまたま……?」 「いいえ、そういう意味じゃなくて、本当に偶然ですってば」 「この土地に古くからある言い伝えでな。男の子がおねしょをすると、どこからか魔女がやってきて金玉を取られてしまうんだ」 「その話でしたら、わたくしも聞いたことがあります。生きたまま皮を剥かれるんじゃありませんでしたっけ?」 「なんで知っているんだ。よそ者のくせに」 まるで睨みつけるように疑わしげな目を向けられて、エロナはついつい自分のおへそを隠してしまう。 エロナにとって母方の祖先に当たる長耳族は、人類の中でも最も古いと言われる種族だ。 その昔、帝国に追われて秘境へ逃れた少数部族で、今ではもうほとんど生き残っていない。男性ではなく女性が世帯主となる母系の伝統があり、先祖代々、母親から娘にのみ受け継がれる独特の紋章がある。 それが、下腹部に彫られた淫紋だ。 妊娠してお腹が大きくなると、ぱっと花びらが咲くように美しい模様が広がる。身体的な痛みをともなう入れ墨やピアスなどの装飾を好み、種族全体に共通する長い耳や鼻の高さを自慢した。 「もしよかったら今晩、ここに泊まっていかないか?」 「えっ?」 「俺がいつもみたいに目をつぶって寝ているあいだ、何かおかしなことが起こらないか、辺りを見張っていてほしいんだ」 「わたくしに寝ずの番をしろと仰るので?」 「たぶん夢の中の出来事だと思うんだけど、もしかしたら俺自身が気づいていないだけで、本当は現実の世界で起こっている出来事かもしれない。そんなふうに考えると俺、毎晩怖くて小便にも行けないんだ」 「何を仰られているんですか。もう子供じゃあるまいし」 「もちろん嫌なら無理強いはしないが、どうせ君だって一人じゃ帰れないだろう? 夜が明けるまでのあいだ、魔物退治に協力してくれないか?」 「そんなことを言っておきながら、本当はわたくしを手籠めになさるおつもりでは?」 「まさかこの俺が、こっそり夜中に寝込みを襲ったりすると思うか? 君のことをセックスするつもりなら、とっくにそうしているさ。そんなに疑わしければ、俺の手足を縄で縛ってくれても構わない」 「いいえ、わたくしにそのような趣味はございません。そうされるのがお望みでしたら、やぶさかではありませんが……」 「じゃあ、俺はもう休むからな。あとはよろしく頼んだぞ。何か少しでも異変を感じたら、遠慮なく叩き起こしてくれ」 それだけ言うとクライオは、弓矢や腰道具など武器になるものをすべてエロナに預けた。熊の毛皮を引っかぶるなり背中を丸めて小さくなる。 エロナは、焚き火のそばで膝を抱えてうずくまりながら、心中何だか寂しい気持ちになる。 クライオが我が家と呼んでいるのは、地面を掘って立てた柱に布をかぶせた粗末なテントだ。物干しがわりにロープを張って洗濯を乾かしており、どうしても見たくないものまで目に入ってしまう。 (……それにしても、さっきの話、本当に夢だったのかしら) 悪夢にうなされて苦しげに眉をしかめるクライオ王子の寝顔を覗きながら、エロナは、どうするべきか迷ってふとこんなことを考える。 (ひょっとすると、クライオ様ご自身が幼いころ、実際に体験なされた出来事なのでは……? だとしたら、クライオ様のお心を悩ませている本当の原因は……)
「クライオ様、起きてくださいませ」 「ああっ、駄目だよ母さん……。そんな汚いところを触っちゃ……。でないともう、僕のおちんちんが……」 「早く起きてください。何やら、森の中から奇妙な気配が……」 「違う、これは母さんの声じゃない……。俺の母さんは、絶対にこんな真似しない……」 エロナは、ランタンに明かりをともして足の踏み場を探しつつ、洗濯物をくぐってテントの中へもぐり込む。 しつこく肩を揺すられてふと目を開けたクライオは、寝苦しい布団を剥いですぐさま飛び起きる。それから自分の股間をまさぐり、汗ばんだ首すじをぬぐう。 「お目覚めでございますか?」 ふう、危ないところだった。あともう少し遅かったら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。 「……いや、ちょっと待てよ。念のためにズボンを脱いで確かめてみよう。おしっこなのか汗なのかわからんが、少し湿っているような気がする」 「そんなことよりも、何だか不気味な雰囲気を感じませんか? うまく言えませんが、先ほどまでとは何かが違うような……」 手早く着替えを済ませて野外へ出てみると、思わず身震いするほど冷える夜だった。 標高三千メートル級の峰々が連なる北方山脈は、月明かりを浴びて黄金色に輝いていた。この辺りの土地は冬が厳しく、昼夜の寒暖差も激しい。油断すれば夏でも凍死する恐れがある。 秋が暮れると霜が降りて草の根まで凍りつき、地面を踏んで歩くだけでシャリシャリと足音がする。透き通った氷の結晶がわずかな光を取り込んで反射するため、天候によっては夜空よりも地上のほうが明るく見えることがある。 「ようやく正体を現しやがったな。邪悪な淫魔め」 クライオは、燃え残った焚き火からたいまつを拾って暗闇にかざす。 「初対面の女性をいきなりそんなふうに呼ぶものじゃくてよ。まるでしつけがなっていないようね」 「――うるさい、黙れ! おまえは、俺の夢の中から現れた怪物だ。つまり、俺自身の願望が生み出した幻想に過ぎない。今すぐ現実の世界から出ていけ!」 見たところ、全身黒ずくめの衣装をまとった年増女だった。 まるで社交界の貴婦人が舞踏会へ出かけるような格好だった。濡れたようにつやのある髪を巻いており、自信たっぷりに腰に手を当てて斜めに構えている。 その声の調子や独特な話しぶりには、わざとらしく色気を使って誘うような抑揚があった。どことなく不自然なくらいに美人なので、じつは女装をしたオカマだと言われても驚かない。 「あなた様はもしや、アンブローネ様……!?」 「お久しぶりね、お嬢さん。グリフィム先生のお宅を訪ねた時以来かしら」 エロナは、賢者グリフィムから託された剣を抱きしめたまま、クライオの背中に隠れてわずかに尻込みする。 「なんだ、知り合いなのか?」 「いえいえ、わたくし自身と個人的なお付き合いがあるわけではなくてですね。わたくしがお仕えするご主人様の、そのまたさらにご主人様と申しますか、何と申しますか……」 「やっぱり私の勘は正しかったわね。グリフィム先生を捕まえて拷問しても、なかなか口を割ってくれないものだから、どこへ行くのか知りたくて、こっそりあとをつけさせてもらったの」 「わたくしのご主人様が、罪人として囚われているのですか? そんな、何にも悪いことをしていないのに、一体どうして……」 かつて地下牢に投獄されていた賢者グリフィムを説得し、宮廷詩人として雇うように暴君ダリオンへ進言したのは、ほかならぬ魔女アンブローネだ。 つまり賢者グリフィムにとって、魔女アンブローネは命を助けてくれた恩人に当たる。 お互いに主義や主張は違えども、文人同士何かしら相通じるものがあったらしく、この二人のあいだには以前から個人的な付き合いがあった。社交辞令もまじえて何度となく私信を交わしている。 魔女アンブローネが宮廷内の派閥争いに敗れて失脚したのも、賢者グリフィムが国家転覆を企てて逮捕された直後だ。共犯者ではなかったにせよ、まるっきり無関係だったとは言い切れない。 「あなたがクライオ君ね? 今年で歳はいくつ?」 クライオは何も答えなかった。 何気ない会話をまじえながら近づいてくるアンブローネに対して、ますます強い疑念を抱く。 「ところで今さっき、隣のお嬢さんと一緒にテントから出てくるのが見えたけど。年ごろの男女が、一晩じゅう二人っきりで何をしていたの?」 「あんたには関係のないことだ。質問に答えるつもりはない」 「たとえ関係がなかったとしても、興味があるわ。誰にも言わないであげるから、どこまで行ったのかだけでも教えてくれない?」 「そんなに知りたければ、力づくで聞き出してみるんだな」 クライオは、腰の後ろから素早くナイフを引き抜いて逆手に構える。 「だったら、そうさせてもらうわ」
アンブローネは、空中に手のひらをかざして炎を燃やす。 素手のまま拳を握りしめて、大きく一歩踏み込みながら勢いよく振り払う。すると、つむじ風に巻かれた焔が一瞬にしてかき消える。 「ちょっと手加減をしすぎたかしら。生かさず殺さずって難しいわね」 「一体、何が起こったんだ……?」 あまりにも早すぎて目で追えなかったのか、それとも本当に目の前で消えてしまったのか。 真っ正面からまともに爆発を浴びてしまったものの、火傷どころか髪の毛ひとつ燃えていない。何やらほのかにふわっと焦げくさい煙が鼻をくすぐるように感じた程度だ。 それだけに、いささか驚愕しつつも動揺を見せずにあえて余裕ぶったアンブローネの態度が、かえって不気味でならない。 「まあいいわ。今の試練に耐えられたのなら、とりあえずは合格ってことね」 「合格だと……?」 「とにかくこれで、あなたが童貞だってことはわかったわ。ひとまず武器を下ろして、落ち着いて話し合いましょう」 「……なぜだ! どうしてわかる!」 「さっきの反応を見れば一目瞭然よ。だってあなた、私の魔法がまったく通じないんだもの」 魔女アンブローネは、その名の通り本物の魔女だった。 しかしながら、たとえいかなる魔法や錬金術をもってしても、絶対に実現できないと言われることがある。 不老不死。若返り。死者の蘇生。生まれ変わり。 いわゆる神のみぞなせる御業というやつだ。 人間は神様によって作られた存在であり、それゆえに禁忌を犯してはならない。宗教にかわって科学が信仰されるようになった現在でも、そのように考える人々は少なくない。 さらに時代をさかのぼると、かつてエール帝国という文明が発展を遂げる以前までこの世界に住んでいたであろう人々は、生命の神秘についてこんなふうに考えていた。 およそすべての命は、生まれながらにして霊魂で満ちており、あるいは生まれつきそれを作り出すための能力が備わっており、死期が近づくにつれて少しずつ失われていくと。 そして魔女と呼ばれる者たちは、初潮を迎えるまえか、もしくは閉経を迎えたあと、おのれ自身の秘められた才能に気づくことが多い。老齢に差しかかり体力が衰えるにつれて、ますます霊感が強まっていく傾向にある。 まるで生殖力の強さと反比例するかのように。 「さがっていろ、エロナ。どうやらあの女が狙っているは、俺じゃなくて君みたいだ」 「だからもう、あなたたちと争うつもりはないって言っているでしょう? 勘違いしちゃってごめんなさい。ちょっとからかってみただけよ」 アンブローネはそう言うと、両手を上げて降参の意思を示した。 ぱっぱと尻をはたいて焚き火のそばに腰かけると、足を組みつつ膝の上で頬杖をつく。鼻歌まじりに癖のある髪の毛をもてあそび、さっきから自分の爪ばかり気にしている。 若作りした見た目に反して年相応にしわがあるアンブローネの手には、王家の印章が彫られた純金の指輪がはめられている。 聖女から授けられる帝冠、宮殿に据えられた玉座、竜を倒したと伝わる王剣などと並んで、博物館に飾られるべき伝説級の国宝だ。 それを手に入れた者は、皇帝にかわって天下にあまねく布告を発することができる。いわば法律や条約に判を押すための印鑑だ。偽造されないように極めて微細な彫刻がほどこされている。 「もしよかったら、この私とセックスしない?」 「……何だって?」 「だから、セックスよ。初めてなんでしょう? だったら優しく教えてあげる」 アンブローネは、さも思わせぶりになで回すような仕草で手まねきをした。こっちこっちと舌なめずりをしてクライオを呼び寄せる。 相手の話し声が小さくてうまく聞き取れなかったクライオは、警戒しつつも油断せずに少しずつ距離を詰めていく。 「あんた、さてはこの土地の者だな?」 「ええ、そうよ」 「だったら、その意味をわかったうえで言っているのか?」 「そんなの、誰にも見つからなければいいだけのことよ。ほら、一度でいいからやらせてほしいと言ってごらんなさい。そしたら、好きなようにさせてあげる」 クライオは、おのれ自身の中で獣の本能が目覚めるのを感じた。どくん、どくんと心臓の鼓動が早まり、ますます吐く息が白くなる。 「――ひょっとして、今のは呪いの言葉か何かですか? わたくしにも教えてくださいませ、クライオ様。セックスというのは、一体どういう意味なのです?」 あやうく心を揺さぶられ足腰がふらつきかけた瞬間、今まで背中越しに隠れて様子をうかがっていたエロナが、クライオの腕をつかんで引き留める。 「セックスはセックスだ。それ以外の何物でもない」 「先ほどからちょくちょく気になっていたのですが、セックスとはもしかして、あれのことだったのですか? わたくしったらてっきり、人を殺めて命を奪うことだとばかり……」 「俺たちにとって、絶対に犯してはならない禁じられた行為のことだ」 「それってつまり、いわゆるあんなことやこんなことですよね? 具体的に言うと、どこまでなら良くて、どこからが駄目なのでしょう?」 「――うるさい、黙れ! いちいち話しかけるな!」 クライオは、つかまれた腕を強引に振りほどいてエロナを突き飛ばす。熱くたぎった血潮が全身を駆けめぐり、流れに逆らって頭までのぼってくる。 北方民族に古くから伝わる獣化という術は、我を忘れて獣のごとく暴れ狂う危険な技だ。死の境地へと至った者のみが習得できる究極の奥義と言ってもいい。 しかし、あまりにも興奮しすぎておのれの限界を超えた途端、いきなり鼻血を噴いて倒れてしまったり、どんどん呼吸が浅くなり意識を失ってしまう。 「その申し出、もしも断ったら?」 「あなたを殺すわ」 アンブローネは、さも事もなげに言った。真っ赤な紅を引いた口元に不敵な笑みを浮かべながら。 「どうやら、話し合いは無駄みたいだな」 「あなたは、私たちにとってとても危険な存在なの。残念だけど、セックスしてくれないんだったら殺すしかないわ」 「だから、どうしてそうなるんだ。まったく意味がわからん」 「今はまだ、私の目的について話すつもりはない。もしもこんな計画がばれたら、私自身だって危険だもの。あなたが私のことを好きになってくれたら、教えてあげてもいいわよ」 「わざわざ知りたくもないね」 「あなたにとって、私のかわりなんていくらでもいる。だけど、この帝国で生きるすべての女にとって、あなたはたった一人だけの特別な存在。だからこそ、この私を選びなさい。あなた自身に選んでほしいの。選んでくれないなら、選ばせてあげる」 「やっぱりあんたは、ちょっと冷静じゃない。頼むから、今日のところはもう帰ってくれ。それがお互いのためだ」 「ええ、そうね。私としたことが、ついつい喋りすぎてしまったわ。でも、これだけは言わせて。私はただ、このお腹の中にあなたの子が欲しいだけ。それ以外には何もいらない」 アンブローネはそう言って、みずからの下腹に手のひらを当てて優しくさする。 大きく開いた胸元の谷間や、ぱんと張った尻回りについつい目が行きがちだが、背中の筋肉は反り返るほど引き締まっており、普段から稽古を怠らず鍛えているように見える。 「それとも、私みたいなおばさんじゃご不満かしら?」 「誰もそんなことは言っていない」 「ふふっ、素直じゃないのね。あなたみたいな子、私も嫌いじゃないわ」 アンブローネは、鼻を鳴らしてすり寄ってきた馬のたてがみをなでつつ、恥じらいもなくドレスの裾をたぐって太ももをさらす。 誰の手も借りずに足をかけて鞍にまたがると、手綱をしならせるなり馬上で揺られながらゆっくりと山を下りていく。 「その気になったら、いつでもよくてよ。次はあなたのほうから会いに来て」
それから夜が明けて、次の日。 「ああっ、いけませんわご主人様……。わたくしめは、身分の卑しき召使いでございます……。そんな汚いところの匂いを嗅がれては……」 昨晩遅くまで夜更かしをしたせいか。それとも長旅の疲れが溜まっていたのか。エロナは、びっしょりと汗をかくほど熱を出して寝込んでしまった。 虫か何かに肌をくすぐられてこそばゆそうにむずむずしながら、少し荒っぽい寝息を立てている。んんっ、とわずかに眉を寄せた表情も、何か言いたげで苦しそうだ。 「ご主人様ったら、こんな恥ずかしい格好をさせるなんてあんまりですわ……。わたくしのことを焦らしていらっしゃるの……?」 いつものように山奥の渓谷から水を汲んできたクライオは、濡らした布巾をしぼっておでこを冷やしてやった。干した肉や野菜をふやかしてだし汁をこしらえ、さじの先ですすらせる。 寝床から抱き起こされてほんの一時だけ目を覚ましたエロナは、いかにも不味そうに喉を鳴らしてごくっと飲み下す。 狩りや釣りにも出かけずつきっきりで看病しているあいだ、クライオは、エロナの枕元に置かれていた書物を取って読みふける。 革製の分厚い表紙で綴じられた、ずっしりと重たい本だった。まるで魔導書みたいに立派な装丁がなされている。 そして、古びて黄ばんだ紙が傷まぬようにそっとページをめくり、おのれ自身の出生に隠された秘密を知った。 「わたくしったら、とんだ朝寝坊をしてしまいました。どうぞお声をかけて起こしてくださればよかったのに」 「あんまり気持ちよさそうに寝ていたんで、そっとしておこうと思ってな」 エロナは、テントの中で隠れて着替えを済ませると、寝癖を直してぱっぱと身だしなみをととのえる。 幸い、得体の知れない毒きのこにあたってお腹を下した程度だったらしく、身体の中から悪いものを出し切ってしまえば、まるでそれまでの症状が嘘だったかのようにすっかり元気になった。 とはいえ、病み上がりに無理をしてぶり返してしまっては元も子もない。しばらくは安静にしておいたほうがいいだろう。 「ちょっと用事があるから出かけてくるぞ」 それだけ言い残して住み慣れた森を離れたこの数日間、はたしてクライオ自身に一体どんな心境の変化があったのか、詳しいことは語られていない。 普段からあまり人付き合いはよくなかったようだが、畑仕事の手伝いやら獣退治やらで村の百姓たちにいくらかの貸しがあり、あちこち知り合いのつてを頼って借金をしている。 一応それなりに信用があったらしく、いくらかの穀物袋に加えて駄馬を一頭連れて帰っている。当時の相場で換算すると、だいたい銀貨五、六枚ぶんくらいの価値だ。節約すれば二三ヶ月は食いつなげるが、当面の旅費としては心もとない。 それから、精霊術の師であるウルリクへ別れを告げに行った。 「おまえはすでにセックスを極めている。もはや教えることはない」 「いいえ、俺はまだ何もわかっていません。今まで一度もしたことがないんですから」 「童貞とは、いまだ女を知らざる者にあらず。かのごとく女の敵ならざる者なり。その心、大人になっても忘れるでないぞ」 この人物について確かな記録は残っていないが、クライオ自身の人生に与えた影響は大きく、後年、父は誰ぞやと聞かれてウルリクの名前を挙げた。さらに母は誰ぞやと問われて、聖女フローディアと答えた。 「それにしても、本当によろしいのですか?」 エロナが不安そうな面持ちで突然こんなことに言い出したのは、旅支度を済ませていよいよ出発する間際のことだった。 「クライオ様の正体が世間に知れてしまったら、あの暴君ダリオンからお命を狙われることになります。きっとアンブローネ様のように、よからぬことをたくらんで近づいてくる女性もいるでしょう。わたくしはただ、それだけが心配で……」 「ご主人様のことが大切なんだろう? だったら助けに行こうじゃないか」 クライオは、借りてきた駄馬に荷物を積んでロープで縛りながら、何気なく答える。 「俺はただ、できるだけ多くの人々がそうであってほしいと望むように生きるだけだ。今までも、これからもな」 「できるだけ多くの人々が、そうであってほしいと望むように……?」 「子供のころに母さんから教えてもらった言葉だ。だから俺は、みんなから尊敬される立派な王様になると決めた。誰もがうらやむような自慢の息子に。こんなふうに考えるのは、間違っているだろうか?」 「いいえ、僭越ながらとても素晴らしいお考えでございます。この帝国を統べる君主となるのに、あなた様ほどふさわしい人物はおりません。ですが、しかし……」 エロナは、どこか心の奥に何とも言えないもやもやとした気持ちを覚えた。 このお方は、お母様への思いがあまりにも強すぎる。もはや偏執的とさえ言えるほどに。揺るぎなき固い意志とは裏腹に、ひどく弱くて頼りない部分を隠し持っており、それが悔しくもありもどかしくもある。 このわたくしが、正しき道から外れぬように陰ながらお支えして差し上げなければ……。それこそが、ご主人様から与えられたわたくしの役目……。いいえ、これからはこのお方こそが、わたくしの新しいご主人様なのだから……。 「どうぞ、お受け取りくださいませ」 エロナは、クライオの足元にひざまずいて頭を下げると、賢者グリフィムから託された王家伝来の剣を献上する。 「これよりわたくしは、あなた様の従順な召使いでございます。この身も心もすべて、あなた様だけのもの。お望みとあらばどんな行為もいといません」 「すまないが、他人から持ち物を奪うことはできない」 「いいえ、奪われるのではありません。わたくしから差し上げるのです」 「この俺にセックスをさせるな」 「セックス……?」 「どうしても必要になったら借りるとしよう。それまでは君が預かっておいてくれ」
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