それから私は、神林部長が運転する車の助手席に乗り込んだ。  何やら知り合いの紹介で断りきれなかったらしく、子犬を連れたお客様のわがままに振り回されて、あちこち物件を案内するはめになる。  ペット同伴での入居はただでさえ大家様の理解を得るのが難しいのに、さらに個人事業主としてサロンを始めたいとか言い出すので、なかなかお探しの部屋が見つからない。  結局その日はご契約に至らず、また後日あらためてご相談をという形になる。手応えはいまいちだったが、念のために名刺を渡しておく。 「君がいてくれて、本当に助かったよ。あの手の女性は、どうも苦手でな」  神林部長は、路肩で車を停めて缶コーヒーをおごってくれた。  はっきりと口には出さないものの、自慢話を聞かされ続けてほとほとうんざりした様子が見て取れる。 「すっかり遅くなってしまったな。定時を過ぎているし、今日は会社へ戻らずに直帰しよう」  神林部長は、シートベルトを締め直して腕時計を一瞥しつつ、サイドミラー越しに微笑む。 「もしよかったら、ついでに自宅まで送ってやろうか?」 「えっ?」  助手席で手持ちぶさたにスマホをいじっていた私は、思いがけない提案を持ちかけられて言葉に詰まる。  この時、ふと私の脳裏によぎったのは、部長のパソコンを使って覗いてしまったアダルトサイトの件だった。  ――やはり、何かの間違いではなかろうか?  高級車のシフトレバーを握った部長の手には、いつもと変わらず結婚指輪が光っている。  どことなく落ち着いた家庭的な雰囲気を持ち合わせていて、はた目から見れば旦那さんとかお父さんとか呼ばれてもおかしくない人だ。  とても他人には言えないような変わった趣味の持ち主には見えなかった。 「いえいえ、近くまでで結構です。遠回りになりますし、途中で降ろしてくだされば……」 「そういえば、君は一人暮らしだったな」  信号が変わるのを待つあいだ、神林部長はネクタイに指をかけて少しゆるめる。  しばらく気まずい沈黙が続いた。フロントガラスにぽつぽつと雨が降ってきて、ワイパーがせわしなく左右する。 「このあと、何か予定があるのか?」 「いいえ、とくには」 「たまには飲みにでも行くか」 「今からですか?」  神林部長は、ウインカーを出してそっぽを向いたまま、誰に話しかけるでもなく独り言のようにつぶやく。 「ほんの一杯だけだ。君も付き合え」

そうして連れてこられたのは、商店街の雑居ビルに看板を構えた個人経営のバーだった。  少し離れた場所にある駐車場を借りて、入り組んだ裏通りの路地を歩いていく。  コンクリート剥き出しの外階段を上ってドアをくぐると、カランコロンと喫茶店みたいな鐘の音がした。  仕事柄、居抜きっぽい店舗の内装を見回して、ついついテナントの賃料を見積もってしまう。 「素敵なお店ですね。普段からよく来るんですか?」  まだ開店したばかりで客足はまばらだった。お財布とスマホだけ取ってコートを預けた私は、うながされるがままにカウンター席へ腰かける。 「馬鹿言え。給料日のあとだけだ」  神林部長は、お店のマスターと気さくに挨拶を交わしながら、自嘲気味におどけてみせる。  言っておくが、職場の部下だからな――とあらかじめ断ってから隣の席につく。  よくよく話を聞いてみると、どうやら学生時代の同級生みたいだ。仲がいいのか悪いのか、男同士の友情はよくわからない。 「部長は飲まないんですか?」 「今夜は車だからな。遠慮しなくていいぞ」  私は、手渡されたメニュー表と睨めっこしつつ、しかめっ面を浮かべる。  いつも居酒屋でチューハイばかり飲んでいる私に、お洒落なカクテルなんて似合わない。  なかなか注文が決まらずまごついていると、神林部長がマスターを呼びつけて適当に頼んでしまう。 「君はずいぶんと酒が強いんだってな」 「いえいえ、そんなことありませんよ」 「いつか一度、こうして君と飲んでみたいと思ってたんだ」  地方の営業所で支店長をつとめていた神林部長が、持ち家を売り払って東京の本社へ戻ってきたのは、ほんの一年くらい前のことだ。  あくまでも社内の噂に過ぎないが、子供ができなくて奥さんと別れたのがきっかけだと聞いている。  ほの暗い照明がともった店内には、レコードに針を落としたようなムードのある音楽が流れていた。  黙って耳をかたむけなければ、ほとんど聞こえない程度の音量で。 「ところで、そろそろ俺に相談したいことがあるんじゃないか?」  神林部長は、口さみしそうに豆をつまんでかじりながら、唐突に話題を変える。 「何ですか、急に」 「例のセクハラ部長の件だ」  グラスをかたむけて二杯目のおかわりに口をつけていた私は、思わず目を剥いて吹き出しそうになった。 「――もしかして、俺のことなのか?」  神林部長は、思い詰めたような表情でうつむいたまま続ける。 「じつを言うと、まるで心当たりがなくてな。もしも自分でも気づかないうちに、君に対してそういう行為をしていたのなら……」 「いいえ、違うんです。えっとですね……」  いきなり部長から面と向かって頭を下げられた私は、かしこまりつつも慌てて取りなす。  こうなってしまったら、部長の勘違いを正すためにも、洗いざらい経緯を話さないわけにはいかない。

「べつにそんな大した話じゃないんですよ。神林部長がうちの部署にやってくるまで、私たちの上司だった人がいるんですけど、ご存知ですか?」 「ああ、引き継ぎの時に挨拶を交わした程度だが」 「つまりそのセクハラ部長が、いいかげん結婚したほうがいいぞとか、いつになったら彼氏ができるんだとか、顔を合わせるたびにしつこくからかってくるものですから」  私は、胸のうちで伏せたスマホを突っつきつつ、過去のメッセージ履歴をさかのぼる。  そうして、画面の明かりが消えないうちに神林部長のほうへかざしてみせる。 「私ったら、その時はちょっと酔っ払っていまして。腹いせにSNSで愚痴ろうとしたところ、アカウントを切り替えるのを忘れたまま、誤爆してしまった次第でして……」 「なるほど、そういうことだったのか」  とりとめのない私の話を最後まで聞き終わったあと、神林部長はふっとこらえきれずに失笑した。  けれどもすぐに真面目な顔つきになり、とけ残った氷をくゆらせつつグラスを口へ運ぶ。 「何か困ったことがあったら、いつでも言えよ。これでも俺は一応、君の上司なんだからな」  じっと手元のグラスを見つめたまま、さらにもうひと口。ウイスキーのロックはまだまだ色が濃かった。  吹雪に見舞われたカップルらしきお客さんが、しきりに寒がりながら店内へ逃げ込んでくる。 「神林部長……」  ふと何気なしにテーブルのコップへ手を伸ばしかけた私は、間違いに気づいて遠慮がちに指摘する。 「それ、私が飲んでいたお酒なんですけど」 「げげっ」  神林部長は、手の甲で口をぬぐってたちまち苦い顔をした。  よくよく目をこらしてみると、透明なグラスのふちに口紅のあとがついている。

「初雪ですね」 「ああ、そうだな」  カードで会計を済ませて店を出ると、粉雪まじりの寒風が吹いていた。  昨今は温暖化の影響もあってか、年の瀬に差しかかってもめったに降らない。 「これから、どうします?」  店内でタクシーを呼んでから、かれこれ小一時間ほど待っているが、道が混んでいるのか一向にやってくる気配がなかった。  様子見がてら大通りまで出てみると、案の定、悪天候のせいで交差点が渋滞していた。どうやら、電車やバスも運転を見合わせているらしい。 「明日も仕事なんだし、早く帰って休め」 「でも、部長はどうやって帰るんです?」 「仕方がないから、歩いて帰るさ。いい運動になりそうだ」 「まさか、ご冗談でしょう? 車を置いたままですか?」  神林部長は、鞄を持ち替えつつ腕時計を確かめて、さも平然と言ってのける。  しかし今さらながらお酒が回ってきたのか、何でもない段差に足を取られて前後不覚にふらついてしまう。 「いやいや、やっぱり酔っ払ってるじゃないですか。さっきから言ってることも無茶苦茶ですし」  危なっかしくて見ていられず、私はすかさず駆け寄って肩を支える。  真っ暗な夜道を行き交う自動車のヘッドライトが、お互いの顔を眩しく照らす。 「妻と別れて以来、あまり飲んでいなかったからな。すっかり弱くなってしまったらしい」  歩道を歩き疲れてガードレールに腰かけた途端、ため息を白く曇らせて、しんみりと身の上話を語り始める神林部長。  一体なぜこのタイミングで? と私は疑問を呈さずにはいられなかった。ものすごく寒いんですけど。 「ひょっとして私、離婚された奥さんに似てたりします?」 「いいや、まったく。むしろ正反対のタイプだな。どうしてそんなふうに思ったんだ?」 「いいえ、とくに理由なんてありません。何となく聞いてみただけです」  一体何がそんなに面白かったのか、神林部長はとうとう声を出して馬鹿みたいに笑った。  ……つくづく未練がましい人だ。  と、私は内心ひそかに憎たらしく思う。  すでに離婚してからずいぶん経っているはずなのに、何かにつけて口を開けば二言目には奥さんの話ばかり。  そのくせ、楽しかったころの思い出を語って聞かせるばかりで、決して恨み言をこぼしたりしない。 「もしよかったら、飲み直します?」  片手でおちょこを作ってお酒をたしなむ真似をした時、つい口をついて出たのは、自分でも思いがけない言葉だった。 「私が住んでいるマンション、ここからすぐ近くなので」 「……俺もついていっていいのか?」  それから私は、途中でコンビニへ立ち寄っておつまみを買い込み、部長と腕を組みながら帰路についた。  もしかしてこういうの、お持ち帰りと言うのだろうか?


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