「童貞万歳!」  老人は、天を仰いで叫んだ。 「かくなるうえは、死してなお童貞のまま生きることを望まぬ!」

のちにその治世を評して絶倫王と称される暴君ダリオンは、玉座の間に愛妾をはべらせながらこう告げた。 「賢者グリフィムよ。長年の働き、まことに大義であった」  僧衣のかむりを取って禿頭をさらした賢者グリフィムは、足下に平伏しつつおそるおそる面を上げる。  暴君ダリオンは、全身にまとった鎧を鳴らしておもむろに立ち上がると、外套をひるがえして帯剣に手をかける。 「これは、もしや……」 「先帝の形見である。童貞に免じて、貴様には一晩の猶予を与えよう。罪人として処刑されたくなければ、みずから名誉ある死を選ぶがいい」  こうして賢者グリフィムは、暴君ダリオンからじきじきに宝剣をたまわり、自害を命じられた。

賢者グリフィムが臆しもせず声高らかに読み上げた巻き物には、暴君ダリオンの悪行を揶揄する辛辣な句がつづられていた。  いわく、妻を寝取って娘を犯すは父にあらざる行いなり。童貞たるもの母のために尽くし、息子を斬ってでも処女を守るべし。

時はさかのぼり、さらに一昔前。  皇帝みずから部隊を鼓舞するべく、愛馬に乗って陣中を見舞ったアクセル一世は、齢四十過ぎの若さで急逝した。  死因は流行り病だったという。  事の真相はともかくとして、世間は暗殺を疑った。なぜなら皇帝の崩御に際して、正統な後継者でない娘婿が立ち会ったからだ。  当時、皇后ネラとともに帝都エルドランドの宮殿に居していた皇太子アクセル二世は、喪主として葬儀を執り行うべく棺の返還を求めた。  ところが、皇帝暗殺の疑いをかけられた娘婿オルスター卿は、冤罪を恐れて遺体を燃やしてしまう。  さらに評議会から罷免されて軍の指揮権を失ったことをきっかけに、新皇帝を称して反乱を起こす。

暴君ダリオンはこの時、東方遠征に際してわずかばかりの手勢を率いる武将の一人に過ぎなかった。  ダリオン自身、東国に割拠する弱小豪族の出身だ。もともと戦乱に乗じて領内を荒らし回る盗賊まがいの傭兵だったが、皇帝アクセル一世から騎士に叙されて忠誠を誓ったとも言われている。  皇帝アクセル一世の予期せぬ崩御により東方への遠征が中止となり、帝国各地から馳せ参じた諸侯たちが陣を引き払って帰途につく最中。  今は亡き皇帝アクセル一世の息子である皇太子アクセル二世から、ただちに北方へおもむいて反乱軍を討伐せよとの命令がくだる。  雪中を強行して北方へ向かう道すがら、王家の御旗を掲げて農奴をつのったダリオンは、連戦連勝を重ねて見事オルスター卿を討ち取った。  さらに降伏した敵兵を味方に加えて、およそ三万の軍勢を率いる大将軍となったダリオンは、すぐさま馬を取って返して帝都エルドランドへ凱旋する。  事ここに至って皇太子アクセル二世は、ダリオン将軍を天下に仇なす逆賊と見なし、城門を固く閉ざして部隊を解散するように命じる。

暴君ダリオンには、生涯を通じて三人の妻がいた。  同郷育ちの幼馴染カルマ夫人を嫁にもらって、三十代の半ばに差しかかるころ。子宝にも恵まれて円満な家庭を築いていたダリオンは、ささいな口喧嘩から自分の妻子を絞め殺してしまう。  そして、故オルスター卿の未亡人アクセラ妃へ結婚を申し込んだ。 「おおっ、愛しのアクセラよ。俺の心はもう、おまえだけのものだ」 「本当に奥さんと子供を殺してしまったの? このわたくしと結婚するために?」  未亡人アクセラ妃は、夫婦ともども毒をあおって心中を図ろうとした僭称皇帝オルスター卿を裏切り、助命を乞うて敵軍へ投降した。  そしてダリオン将軍の男気に惚れ込み、抱かれるがままに身をゆだねる。

皇太子アクセル二世は、側近からよからぬ噂を吹き込まれて佞臣に叛心ありと断じた。  未亡人アクセラ妃は、今は亡き皇帝アクセル一世の長女であり、皇太子アクセル二世にとって腹違いの姉弟に当たる人物だ。  直系の男子が絶えれば、女系へと帝位が継承される。  それに何よりも、皇太子アクセル二世の実母にして後見人たる皇太后ネラと、先妻エメラルダ后の娘であるアクセラ妃とのあいだには、以前から根深い確執があった。 「おのが命惜しさに夫を裏切って敵将の妻になるとは! 何という尻軽な娘だこと! 同じ女として恥ずかしくないのかしら!」 「ご安心召されませ、母上! 不肖ながらこの朕が、必ずや人質に取られた姉上を救い出し、逆賊ダリオンを成敗してくれましょうぞ!」

「城門を開けよ!」  暴君ダリオンは、先帝アクセル一世が遺した愛馬にまたがり、閉ざされた城門の前で呼びかける。 「我こそは北征将軍ダリオンなり! 僭称皇帝オルスター卿を下して亡君の仇を討ち、勝利の凱旋に参った! 皇太子殿下への謁見を求む!」  春の訪れとともに山脈を越えて西方へ辿り着いたダリオン軍は、長蛇の列をなして民衆から喝采を浴びた。  皇太子アクセル二世が先んじて伝令を走らせ、要所に布陣してダリオン軍を迎え撃つように命じたものの、帝国各地の領邦を治める諸侯たちは、あえて見て見ぬふりをして素通りさせた。  もとはと言えば、これは御家騒動に端を発した内乱だ。命令に逆らえば敵と見なされ、かといって味方を攻撃するのも気が引ける。  今後の情勢がどうなるかわからない以上、下手に動くわけにはいかない。

「なぜだ、グリフィム先生! なにゆえ朕は皇帝に即位できぬ!」  賢者グリフィムはこの時、皇太子アクセル二世のお目付け役として帝都エルドランドの宮殿にとどまっていた。 「早まってはなりませぬぞ、太子。今この騒ぎの最中に、みずから皇帝へ即位しようものなら、玉座をめぐって争いが起こるは必定でござりまする」  エール帝国は、神権によって世俗の領主を統べる諸国家の連合体だ。  先祖伝来の領地は世襲であっても、皇帝の冠は女神から授かり、称号は民衆から与えられるものとされていた。 「まずは古式ゆかしき伝統にのっとり、評議会にはかって民衆の支持を得るのです。さもなくば、いくら正統な後継者といえども、皇帝として帝国を統治する資格はございませぬ」  皇太子アクセル二世は、いまだ成人を迎えていない幼君だった。

これまで多くの教え子を育ててきた賢者グリフィムも、男子に生まれども君主たるべき器にあらずと見抜いていた。