「メスは豚である」 東方の大国アスタリアを治めるエゼキウス王の人となりを表す言葉として、こんな台詞が残されている。 「まだ食べてはならぬ。もっと肥え太らせよ」
「男は鞍にまたがり、女の膝に枕する。しかれども、我が愛馬の太ももは妻よりも美しい」 かの偉大なる皇帝アクセル一世の生涯は、とにかく外征に尽きる。帝国各地で戦争が起こるたびに東奔西走し、まさに駆け抜けるがごとく儚き天命を全うした。 ひるがえって義理の兄弟に当たるエゼキウス王は、軍事よりも内政を重んじる指導者だったと言えよう。 この両者は、エゼキウス王の妹かつアクセル帝の妻ネラとの婚姻を通じて盟友関係にあった。のちに、息子アクセル二世を擁して権勢を振るうあの悪女ネラだ。
「猪どもに分けてやる土地はない。追い払ってしまえ」 同じ人類でありながら人間とは異なる種族――いわゆる亜人族の台頭は、東方のみならず帝国全体にとっての脅威だった。 これまでも何度となく戦火をまじえ、勝ったり負けたりを繰り返してきた歴史がある。 猪人族による大規模な襲撃を受けたエゼキウス王は、自国の領土を侵略する蛮族に対抗するべく、みずから臣従を申し入れて援軍を乞う。 若かりしころ、見初め合ってから三年と経たずして先妻エメラルダ后を亡くしたアクセル帝も、世継ぎを残すためにさらなる子作りを求められており、とんとん拍子で政略結婚と相なった。 「この豚足女め! デブのくせにつま先で背伸びをしよって! 花嫁衣装のせいでまんまと騙されたわ!」 「ご自分の妻に向かって、何という言い草かしら! そんなに健脚がお好きなら、東方随一の名馬を差し上げますわ! せいぜい私のかわりに可愛がってくださいまし!」
ちなみにアクセル帝の死後、その妻ネラに対して屈辱を与えることになる暴君ダリオンは、この東方遠征の際に一族郎党を引き連れて帝国軍へ加わった。 「戦太鼓と人妻の尻はでかいほうがいい。叩きがいがあるというものだ」
僭称皇帝オルスター卿を下して北方の乱を平定したのち、皇太子アクセル二世を首都から追放して西方へ勢力を伸ばし、帝国全土のおよそ半分を支配下に治めた暴君ダリオンは当時、民衆から絶大な人気があった。 「評議会の議員どもは、皇太子アクセル二世を皇帝の座へ擁立しようとした反逆者である。市中を引き回して処刑せよ」 評議会に列する貴族たちは、まるで手のひらを返したようにすっかり態度を変えて、暴君ダリオンへ皇帝の称号を贈った。 けれどもダリオン自身は、自分はその地位にふさわしくないと固辞したうえで、皇帝のかわりに政治をつとめる宰相と、軍の最高指揮官である元帥を兼任した。 それでも反対票を投じた者たちは、見せしめのために殺害されたり、牢獄に入れられて拷問されたりした。 「我が君ダリオン様に逆らう者は、殺してしまって構いません。もっと法律を厳しくして、犯罪者を取り締まりなさい」 王家の印章が彫られた指輪を預かる魔女アンブローネは、すらすらと羽根ペンを走らせて矢継ぎ早に布告を発した。 というのも、帝国各地の諸侯たちが一斉に離反してしまったために、本来おさめられるはずの年貢が支払われず、たちまち財政が破綻してしまったのだ。 かといって、借金を返済するためにまた負債を積み重ね、庶民から税金を搾取すれば暴政と見なされてしまう。 そこでアンブローネは、あらぬ罪状を突きつけて裕福な貴族や商人たちを捕らえ、ことごとく死刑に処して財産を没収することにした。 やがてその恐ろしい魔の手は、多くの資産を所有しながら徴税を免れている宗教勢力にも及んだ。
エール帝国の首都エルドランドには、処女信仰の総本山である塔の神殿がある。 かつては港を照らす灯台だったものの、たび重なる氾濫によって川の流れが変わり、運河の完成にともなって埠頭が移されたため、当時すでに本来の役割を終えて象徴的な記念碑と化していた。 この場所には、古代に築かれた荘厳な神殿と、原初の炎をまつった聖なる祭壇がある。天地の創造主にして破壊神たるドラゴンの怒りを鎮めるべく、帝国各地から大勢の信者が集まってくる。 処女信仰の教徒たちにとって、一生のうちに一度は行かねばならぬと言われる聖地だ。身分の貴賤に関係なく、誰もがみな女神像の足元にひざまずいて貢ぎ物を捧げる。 こうして寄付された莫大な募金は、地震や洪水といった災害が起こるたびに貧民の救済に回され、陰ながら社会の底辺を下支えしていた。 「神殿に隠された財宝をよこせ。さもなければ……」 おのが野望のためにみずから妻子を絞め殺し、皇帝の娘であるアクセラ妃と再婚した暴君ダリオンには、直系の継嗣がいなかった。 とはいえ、故郷から連れてきた一族郎党の親戚筋に多くの男子がいた。妾腹に産ませた庶子も数えきれず、後宮に迎えられた側室のほとんどは子連れの未亡人だった。 ある日、暴君ダリオンの甥に当たるゲリオンなる若者が、無理やり神殿に押し入って巫女を連れ去るという事件が起きた。 見知らぬ男たちに乱暴されて裸足のまま逃げ帰ってきた巫女は、信仰を守るために油をかぶって焼身自殺した。 「へへっ、やってやりましたぜ親父殿。これでおいらもようやく一人前の男だ」 「この愚か者めが! 人質をさらって脅すだけでよかったのに、おまえのせいで何もかも台無しではないか!」 暴君ダリオンは、この時すでに四十歳を過ぎている。まだまだ働きざかりだが、そろそろ老後についても考えなければならない年齢に差しかかっている。 万が一に備えてあらかじめ後継者を決めておかないと、領地の相続をめぐって身内同士で骨肉の争いが始まりかねない。 先代の聖女にかわって塔の神殿に座していたフローディアは、わなわなと拳を震わせて激怒した。 神殿前の広場に集まった信者たちは、開かずの扉がおよそ十年ぶりに解禁されるまで、先代の聖女が亡くなったことを知らなかった。 まるで別人のように若返った聖女の姿を拝んで、悲しみに暮れながらも泣いて喜んだ。 「みなの者、たいまつを掲げよ! 今こそ立ち上がるのだ! たとえふたたび暗黒の時代が訪れようとも、文明のともし火を絶やしてはならぬ!」 処女のまま竜の子を孕んだ女神の化身となり、生け贄として祭壇へ捧げられた聖女フローディアは、怒りに燃えるたいまつの炎をかざして暴徒と化した民衆を焚きつける。
そんな折、長年の宿敵である猪人族と手を組んだエゼキウス王が、いきなり大軍を率いて西方へ侵攻してきたという報せが入った。 皇帝アクセル一世の予期せぬ崩御により、三度にも及んだ遠征がうやむやのまま終わり、帝国各地から馳せ参じた諸侯たちが兵を退いてしまったあとも、東方では相変わらず猪人族との戦いが続いていた。 猪人族の指導者はすでに矢を食らって戦死していたが、統率を失った残党があちこちに散らばって略奪を繰り返し、状況はますます泥沼化しつつあった。 そこでエゼキウス王は、それぞれの部族を率いる族長を辛抱強く説得し、敵全体のおよそ半分を自軍に引き入れ、残りの半分を撃退することで、この長きにわたる戦いにようやく終止符を打った。 荒野の果てから大挙して押し寄せてきた猪人族の目的は、農耕や牧畜が盛んな帝国領へ移り住むことだったので、結果的には痛み分けだったとも言える。 「男ならば、誰しも一度は夢見るものだ」 「と、申しますと?」 「この世界のすべてを征服し、自分だけの理想のハーレムを築く。わしにとって政治や戦争とは、その野望を実現するための手段に過ぎん」 エゼキウス王は、収穫の季節を待って準備をととのえたのち、総勢二万五千を超える兵と百隻の艦隊を揃え、いざ帝都エルドランドへ向けて出陣した。
「なぜ今まで敵の動きに気づかなかった! さては事前に察知していながら、わざと報告しなかったな?」 暴君ダリオンは、粛清におびえる大臣や官僚たちを呼び出して厳しく叱責した。 かの偉大なる皇帝アクセル一世亡きあと、暴君ダリオンによって首都を乗っ取られた帝国は、いまだ混乱の最中にあった。 王朝の存続を支持する有力な諸侯たちが、それぞれ派閥に分かれて手を組んでおり、領内を平定するべく出陣すれば、すかさず背後を突かれるような状況にある。 いくら戦上手で鳴らしたダリオンといえども、今ここでエゼキウス王と正面切って戦うわけにはいかない。 さらに近ごろでは、聖女フローディアを指導者とする宗教勢力があちこちで蜂起し、もはや収拾がつかなくなりつつある。 エゼキウス王は、何事にも慎重かつ万全を期する用心深い人物だった。よほど勝算が見込めない限り、みずから戦争を仕掛けたりしない。 それでいて、いざ好きな人に告白してフラれたら、そもそもあんなブスなど最初から好みではなかったと言い出すような男でもあった。 きっとこの時も、必ず勝てると踏んで賭けに出ておきながら、あらかじめ負けた時の言い訳を考えていたに違いない。
ところ変わって、エール帝国の首都エルドランドから中つ海を隔てた東方にあるアスタリア王国の都アスタリスクにて。 「……おおっ、息子よ。私のかわいい息子よ」 華麗なドレスを着たまま病床に臥した貴婦人が、骸骨のようにやせ細った手をさまよわせる。 「ご無理をなさってはいけません、母上。もう若くないのですから」 金髪長身の美しい顔立ちをした青年が、ベッドから起き上がろうとする貴婦人をいたわり、手に手を取ってそっと飲み物を差し出す。 「この親不孝者め! 恥を知りなさい!」 心の病に冒されて見る影もなくやつれ果てた母ネラは、冷や水を浴びせて息子アクセル二世の頬を引っ叩く。 「おまえは一体、こんなところで何をしているのです? 成人を迎えればもう立派な大人でしょうに、いつまでも母親に甘えてちっとも自立しようとしない。ろくに働きもせず遊んでばかりいて、自分のことが恥ずかしくないのですか?」 「まさに、母上の仰る通りです。面目次第もございません」 アクセル王子は、ぶたれた頬に手を当てておのれの不甲斐なさを恥じる。 暴君ダリオンによって玉座を奪われたあと、帝都エルドランドから追われて命からがら遠国へ落ち延びてきたアクセル王子は、母ネラともどもエゼキウス王のもとでかくまわれて雌伏の時を過ごしていた。 逆賊ダリオンを倒して帝国の民を救うべく、これまで何度となくエゼキウス王に援軍を求めてきたものの、蛮族との戦いを理由になかなか聞き入れてもらえず。 ところが一転、いざ大軍を率いて出陣する段になると、今度は留守番を言いつけられてしまう。 「我がアスタリア王国の家臣たちはみな、今は亡き皇帝陛下ではなく、このわしに忠誠を誓っております。皇太子殿が戦場へ出向いても、かえって指揮が混乱するばかり。どうぞ安心して吉報を待たれるがよい」 今まで属国の地位に甘んじてひそかに下剋上を狙ってきたエゼキウス王からしてみれば、かつて自分の臣下だった暴君ダリオンに対して宣戦を布告する理由は持っておきたい。 さりとて、せっかく暴君ダリオンから取り上げた領地を、本来の持ち主であるアクセル王子へ返すことはできない。 宗主国に対して領土を主張する権利を持っているからこそ、外交問題になることを承知のうえでアクセル王子の亡命を受け入れたのであって、利用価値がなくなった人質など邪魔者でしかない。 同盟を結ぶために望まぬ相手と結婚させられ、そのうえ世継ぎを産んだら皇帝を暗殺しろと命じられていた妹ネラは、そんな兄エゼキウスの隠された本性を見抜いていた。 「母には二人の仇があります。どうしても死んでほしい男と、どうしても殺さねばならぬ男です」 晩年、癇癪をこじらせてますます気性が激しくなったネラは、みずから毒を服して生死の境をさまよったすえ、アクセル王子に看取られながら息を引き取った。 「けれども、もはやおまえに望むことは何もない。ただ生きてさえいればそれでよい」