暴君ダリオンの妻アクセラ妃には隠し子がいた。  僭称皇帝オルスター卿とのあいだに生まれた第一子だ。父祖の名前にあやかってクライオと名づけられた。  しかし、当時すでに養子を跡継ぎに立てていたオルスター卿は、わけあって自分の子供と認めなかった。 「夢を見たのです。魔物に犯される夢を」  夫に内緒で浮気をしていたアクセラ妃は、しくしくと涙を流しながら告白する。 「その魔物はどんな姿であったか?」 「全身毛むくじゃらの巨大な狼でありました」 「ならば霊獣の仕業に違いない。狼の子は森へ返さねばならぬ」  エール帝国の北方にそびえる山脈の麓には、自然あふれる豊かな森林が広がっている。この土地には古くから、悪しき魔物を食らう青眼の白狼が棲むと言い伝えられている。  こんこんと雪が降りしきる満月の夜。わずかな従者とともに霊峰を訪れたアクセラは、断腸の思いで我が子を置き去りにした。

ほかにもこんな逸話が残されている。 「金玉が三つだと?」  その当時まだ存命中だった皇帝アクセル一世は、初孫の顔を見るために愛馬を駆って北方へ急いでいた。 「それだけではありません。すでに立っておるそうで」 「まだ産まれたばかりだぞ? もう歩けると申すのか?」 「いいえ、あそこがでございます」 「なんと元気な赤ん坊だ。竜の化身かもしれん」  このあとアクセル帝は、流行り病にかかって不審な死を遂げる。 「天下に両雄は並び立たず。これが皇帝の宿命というものか……」

夜明け前に突如として現れたドラゴンは、燃えさかる炎で地上を焼き尽くした。  大雨と洪水によってすべてが流されたあと、くすぶり続ける山から見つかった残り火が、鍛冶や錬金に長けた帝国文化の発祥とされている。  創造と破壊の神がもたらした原初の炎は、かまどに命を吹き込む文明の象徴とされ、エール帝国の誕生から一千年以上経った当時もなお、絶やさずに受け継がれていた。  その炎をまつった代表的な聖地のひとつが、帝都エルドランドにある遠見の塔だ。  ここには、ドラゴンへ生け贄を捧げるための祭壇があり、女神の化身たる聖女が神殿に座している。  万年雪で覆われた北方山脈の霊峰にも、女神の石像と焚き火台が置かれている。これは分け火と言われ、帝国の領土が拡大するにつれて大陸各地へ広がった。  もしも薪が燃え尽きて炎が消えてしまったら、各所の祠からたいまつを持った僧侶がやってきて、ふたたび祭壇に明かりをともす。  錬金術の第一歩とされる金属の発見は、帝国の発展に大きな影響を及ぼした。  しかしその一方で、自然に宿る精霊の存在や、魔術や呪詛などの部族的な風習は、時代を経るにつれて次第に忘れられていった。

「乳をお恵みくだされ」  相次ぐ戦争による農民の徴兵と、帰還兵によって広められた疫病の流行により、帝国全土が深刻な飢饉に見舞われていたある冬のこと。  まるで乞食のようにみすばらしい格好をした少女が、雪山から麓の村へ下りてきた。おくるみに包まれた赤ん坊を抱いて、貧しい人家をたずね歩く。  その名は、修道女フローディア。当時はまだまだ見習いで、せいぜい十二、三歳ばかりの小娘だったという。 「どうかこのあわれな赤子に乳をお恵みくだされ」 「見ての通り、この村に家畜はおらんよ。何もかも兵隊に奪われてしもうた」  修道女フローディアは、辺鄙な農村から荷馬車に乗って小さな町までやってきた。  けれども市場を見て回ったところで、売るものもなければ買えるものもない。道行く人々は物乞いなど見慣れており、一向に足を止めようとしない。  そこでフローディアは、道ばたに立ってこんな噂を言いふらす。 「この赤ん坊こそは、天空から生まれ落ちた神の御子。降りつもる雪の中から拾われた奇跡の子でございます。お恵みをほどこせば、きっとご利益がありますぞ」  帝国各地の領邦を治める諸侯たちが、重税に加えて徴兵を課していたこの時期、庶民の暮らしぶりは困窮を極めており、生後間もなく我が子を亡くす母親が多かった。  うら若き身空で夫にも子にも先立たれ、手ずから乳をしぼって鉢に捨てていた妻たちの悲しみたるや、いかばかりか想像もつかない。 「おやまあ、かわいい男の子だこと。抱っこさせておくれ」 「ほら、おっぱいの時間だよ。おしめを替えてあげようね」  こうしてクライオは、行くところ行くところ大勢の女たちに囲まれてすくすくと育った。  夜泣きのせいでなかなか眠れぬ日などは、フローディア自身も暖炉に当たりながら揺りかごをあやし、おしゃぶりがわりに自分の乳房をくわえさせた。  やがて、母性に目覚めたフローディアの胸も少しずつふくらみ始め、みるみるうちに大きくなっていった。

人里離れた山奥の森の中に、古びた礼拝所がある。  赤茶けたレンガをモルタルで塗り固めた瓦屋根の建物だ。かつて暖炉だったと思われる場所に、崩れた煙突の残骸が散らばっている。  今はもう朽ち果てているが、扉や階段には合板が使われ、窓にはガラスがはめられていた。  緻密に計算された高度な建築技術もさることながら、驚くべきは錆びや腐りを防ぐ塗料だろう。  当時の人々は芸術にも秀でていて、自然の草花や鉱物の元素を混ぜ合わせることで、陶器や織物などの工芸品を美しく染めることができた。  処女信仰の敬虔な教徒だったフローディアも、こうした場所で自給自足の修道生活を送るかたわら、副業として薬草採りや染め物にいそしんでいたと思われる。  北方山脈には、真っ白な雪景色にゆらゆらと湯けむりが立ちのぼる温泉がある。原初の炎をあがめる人々にとって、大地から湧き上がる熱湯はまさに天の恵みだった。 「これが、男の子のおちんちん……?」  クライオは、裸のままつかまり立ちをして抱っこをせがんだ。すってん転んで尻餅をつきそうになり、脱衣を済ませたフローディアが慌てて追いかける。 「べつに恥ずかしいことじゃないわ。きちんと綺麗に洗ってあげなくちゃ」  クライオ王子は、当時にしては珍しく割礼を行っていない。生後間もなく森の中に捨てられた野生児と言われる所以だ。

今まで心の中ではずっと少女のままだったフローディアも、そろそろ一人前の大人として扱われる年齢になり、体形の変化も相まって周りの目を気にする機会が増えてきた。  女神のごとき豊乳の持ち主と称えられたくらいだから、たまに町を歩けば見知らぬ男どもから囃されることもあったろうし、同年代の娘たちとお喋りをしてうらやましく思うところもあったろう。  そんなある日の出来事だった。  いつものように染めた布をしぼって洗濯を干し終えたフローディアは、庭先の薬草畑で遊んでいるクライオに留守番を言いつけると、こっそり懐に刃物を隠し持ち、たった一人で森の中へ出かけていった。  幼いころから好奇心旺盛で怖いもの知らずだったクライオは、道ばたで拾った棒切れをでたらめに振り回しながら、おぼつかない足取りでてくてくと歩いていく。  青々と茂った森林がそよ風に吹かれてざわめき、眩しい木漏れ日が降りそそぐ初夏のころ。  ぎらぎらとした太陽に手のひらをかざしたフローディアは、裸足のままスカートの裾をたくし上げ、うっすらと霞がかかる滝つぼで水浴びをしていた。  濡れた岩肌でかみそりを研ぎ、清らかな流れにすすぐ。よくよく石鹸を泡立てて、おそるおそる脇の下や足のすねをなぞる。  みそぎの儀式を行っていたのだ。  信仰のために貞操を捧げた敬虔な僧侶は、不浄なものを忌み嫌った。とくに陰毛に関しては、いつまでも無垢な少女でいるために、綺麗さっぱり剃るのが習わしだった。 「――嫌だわ、見ないで!」  耳をつんざく甲高い悲鳴に驚いて、小鳥の群れが一斉に飛び立つ。フローディアは、みずからの裸を抱きしめて岩陰にしゃがみ込む。  草むらに隠れつつ秘め事を覗いていたクライオは、もじもじと股間を押さえながら慌てて逃げ出した。 「ああっ、神よ! 私はなんて恥ずかしいのでしょう! まるで燃えさかる炎に全身を焼かれるようです!」

のちに次世代の聖女に選ばれることになる修道女フローディアは、薬の調合に通じた治癒師であると同時に、優れた教育家でもあった。  神官や僧侶でさえ武器を持って戦うのが当たり前な世の中にあって、あえて返り血に染まらぬ白衣をまとい、衛生観念の普及につとめた第一人者でもあった。 「――よいですか? おちんちんの先っぽから飛び出してくる精液は、たとえ我慢汁であっても種付けされてしまう恐れがあります。ですから、危険日を避けたからといって必ずしも安全とは限りません」  フローディアは、女神像が奉じられた教壇に立って聖典をひもとき、この世界の成り立ちと生命の誕生にまつわる神秘を説く。  ろくに文字の読み書きさえできない村人たちを集めて、男女における身体の仕組みや、性に関する正しい知識を広める。  処女信仰は、一夫多妻や生前離婚を認めない。もちろん婚前交渉も禁じられている。  とはいえ、新郎新婦ともに初めて同士だと、いざ子作りに励めと言われても何をするべきかわからず困ってしまう。そのため、しばしば聖職者が夫婦の営みについて指導したり、こっそり悩みを聞いて相談に乗ったりする。  貧しくて学校にも通えない女性や子供たちへ健全な教育をほどこすことが、布教活動の一環でもあったのだ。  クライオは、幼いころから教室で机を並べて勉強に励み、人生において最も大切なことを学んだ。 (やっぱりこの子は、男の子なんだわ)  母でありながら教師としてあえて厳しい態度で接するフローディアには、内心こんな複雑な思いがあったのかもしれない。 (たとえ神に仕える身といえども、私だって一人の女だもの。いつまでも一緒には暮らせない。だから今のうちに教えておかないと。さもなければ、いずれ間違った知識を身につけてしまう)

その昔、寒さが厳しい北方の地域はあまり文明が進んでおらず、農業や交易があまり盛んではなかった。  一年を通して雨量が少なく気温も低いため、帝国人が主食とする作物はほとんど育たず、庶民の食卓に並ぶのは、もっぱら葉っぱや木の実を煮込んだ味気のないスープばかりだった。  女手ひとつで食べざかりの息子を育てるフローディアの暮らしぶりは、はたから見ても決して楽なものではなく、それを気遣って時おり仕留めた獲物を届けてくれる狩人がいた。  狩りの時期が終わって冬支度を始めるころになると、薪割りや大工仕事を手伝ってくれた。田畑が荒れ果てて野盗がはびこる世の中、用心棒がいてくれると何かと心強い。  その男の名前は、ウルリクと言った。周囲から変わり者だと噂される独り身の無頼漢だっただけに、誰とでもわけ隔てなく接するフローディアとの仲は、とても親密そうに見えた。  山の神々をあがめ、森の精霊をうやまう先住民たちの中には、帝国の文化を受け入れて集落へ移り住む者もいれば、昔ながらの伝統や風習をかたくなに守り続ける者もいた。 「女人と交わり禁忌を犯すこと。これすなわちセックスなり」 「セックス……?」  少年時代のクライオは、夏が来るたびに川で魚釣りをしたり、弓や罠を使って野生の動物を狩った。普段は帰りが遅いと心配するフローディアも、知り合いの大人と一緒ならばと条件をつけて遠出を許した。 「セックスとは、我らの言葉で禁じられた行為のことだ」  ウルリクは、拾った小枝をへし折って焚き火にくべる。手のひらをかざして暖を取りながら、じっと炎の揺らめきを見つめる。 「だったら、他人の命を奪ったり、持ち物を盗んだりすることは……」 「すべてセックスである」  クライオは、動物の毛皮をかぶって夜風をしのぎつつ、満天に広がる銀河を眺める。森の住人たちが奏でる不思議な楽器の音色に耳をかたむけながら。 「よいか、クライオよ」  ウルリクは、ささやくように静かな語り口で告げる。 「男はなぜ、他人の命を奪ったり、持ち物を盗んだりすると思う?」 「それは……」 「どうしてもセックスがしたいからだ」  いまだ大人の事情を知らぬクライオにとっては、いくら考えても答えが出ない疑問のように思えた。 「おまえも大きくなれば、いずれわかる時が来るだろう。セックスを禁じれば、おのずと見えてくる。我らにとって本当に大切なものが」

北方民族の伝承によると、この世界には二種類の生き物がいるという。  オスとメスの交わりによって誕生する生き物と、どこからともなく自然に発生する生き物だ。  彼らは、前者を人間と同じ動物と考え、それに当てはまらない後者を魔物と呼んだ。  大雑把に言えば、アニマルと違ってモンスターは感情を持たない。みずからの意思に従って行動しない。ゆえに善か悪かという考え方では判断できない。  あの世とこの世をつなぐ精霊への信仰は、彼らの暮らしにも深く根ざしている。たとえば、繁殖期に入った獲物はあえて狙わずに見逃したり、果実がなる植物の雌雄を見分けて受粉させたりもした。そうやって食べ物が乏しい過酷な冬を耐えしのぐ。  また、動物でありながらオスとメスの両方の特徴を兼ね備えた存在が、飛竜や銀狼を始めとした霊獣であり、あらゆる生命の起源とされた。  神話に登場する召喚獣に関しては、それぞれ呼称は違えども、帝国の文化と共通している部分が多い。 「セックス!」  森の中で遊んでいるうちにすっかり先住民たちの文化に馴染んだクライオは、精霊の守り手であるウルリクを師と仰ぎ、魔物と戦うための術を教わった。 「おのれの肉体に宿った精力を解き放ち、雄叫びとともに野性の本能を呼び覚ますのだ。さすれば男は、獣のごとき強さを得ることができる」  霊験あらたかな滝に打たれて苦行を積んだ猛者ともなると、たとえ氷に覆われた雪山であっても、寒さを感じずに裸のまま立っていられた。  なぜなら、ある種の精神的な興奮状態によって自身の体温を高く保つことができたからだ。  しかし、その遥かな高みへ至るまでの道のりは、まだまだ険しい。