「童貞万歳!」 老人は、天を仰いで叫んだ。 「かくなるうえは、死してなお童貞のまま生きることを望まぬ!」 不気味な暗雲が垂れ込める中、乳飲み子を抱いた女神像を見上げながら、みずからの股間に剣を突き立てて今まさに自刃せんとしている。
心ならずも時の権力者である暴君ダリオンに仕え、その治世を風刺する一編の詩を奏上した賢者グリフィムは、褒美として先帝の剣をたまわり、自害を命じられた。 「童貞に免じて、貴様には一晩の猶予を与えよう。罪人として処刑されたくなければ、みずから名誉ある死を選ぶがいい」
いわく、妻を寝取って娘を犯すは父にあらざる行いなり。童貞たるもの母のために尽くし、息子を斬ってでも処女を守るべし。
エール帝国の首都エルドランドは、当時にして百万を超える人口を抱える大都市だった。 海と川がまじわる交通の要所に位置しており、天然の良港と豊かな漁場に恵まれていた。 火山灰を含んだ肥沃な土壌と、城下に巡られた人工の運河が、そのまま飲める綺麗な水をもたらし、様々な食材を使った料理を生み出した。 土地を所有する農家に戸籍を与え、年貢を免じるかわりに兵役を課すことで、平時から厳しく訓練された常備軍を組織できるようになった反面、大勢の失業者であふれた都市部では、物価の高さや治安の悪さがたびたび問題となった。 石畳が敷かれた大通りをひっきりなしに荷車が行き交い、路地裏に入れば露天商が怪しげな品物を売っている。カードやサイコロを使った賭博が横行し、飲んだくれて路上で寝転がる者も少なくなかった。 都会のほうは騒がしくて眠れないので、富裕層は町外れに農園を買って別荘を建てた。噴水つきの豪邸に愛人を囲い、賓客を招いては毎晩のように宴を開いた。 戦争に負けて捕虜となり、奴隷として売られた者たちは、所有者に身代金を払えば自分自身を買い戻すことができたので、自由になるために喜んで働いた。
先帝アクセル一世の時代から家庭教師として宮殿に仕えていた賢者グリフィムは、もともと城下にある図書館で古くなった公文書を写本する学者だった。 それ以前までは都会の片隅で隠れて生活する逃亡奴隷だったので、世間に評判が広まるのはずいぶん歳を取ってからだ。 足しげく神殿へ通って貢ぎ物を捧げる処女信仰の教徒でもあった。生涯を通じて独身を貫いており、多くの優秀な弟子を輩出したものの子供はいなかった。 老後は貯金を崩しながらのんびりと余生を送るつもりだったらしく、首都近郊の避暑地に小ぢんまりとした別荘を構えている。 学問や教養のみならず一流の詩人としても名を馳せた賢者グリフィムは、遠く故郷の海が望めるこの隠れ家をついの住処と定め、人知れずこっそり回顧録を書いていた。 そこには、みなしごであったと伝わる初代の王と同じように、捨て子として育てられたクライオ王子の出生にまつわる秘密が記されていた。
暴君ダリオンから死刑を宣告されて自殺を試みるものの、この世に未練を残したまま結局死ぬに死にきれず、途方に暮れて町じゅうをさまよった賢者グリフィムは、無情にも雨に打たれながら家路につく。 「お帰りなさいませ、ご主人様」 留守のあいだ住み込みで働いている使用人が、寝ぼけまなこをこすりつつもお行儀よく出迎える。 そろそろ嫁に出してもよい年ごろだが、わけあってなかなか嫁ぎ先が見つからない、明るくて気立てのよい十五、六歳くらいの生娘だった。 「本日はご帰宅なさると聞いておりませんでしたので。ただいまお食事をご用意いたします」 「いやいや、構わん構わん。そんなことよりも、服を脱ぐのを手伝ってくれんかの。道中通り雨に降られてずぶ濡れじゃ」 夜もふけてすっかり暗くなったころ、お土産をさげて我が家へ帰ってきたグリフィムは、何食わぬ顔で普段通りをよそおう。 まさか、暴君ダリオンの怒りを買って文字通りクビを告げられたとは思うまい。 翌朝、夜が明けてもまだ生きていたら、衛兵に捕まって処刑台へ送られてしまう。 「ところで、エロナや」 御年八十歳近くなり、髪の毛はおろか歯もほとんど抜けてしまったグリフィムは、温かいスープにちぎったパンをひたしてしゃぶる。 「おぬし、故郷はどこじゃったかの」 「中つ海を船で渡った南方でございます」 つぎはぎのワンピースにエプロンを身につけたエロナは、腕によりをかけてこしらえた料理を振る舞う。 汚れても構わない働きやすい服装ながら、編んだ髪を結わってお洒落に着こなしている。 階段で雑巾がけをしてもお尻が見えないように、スカートの丈は引きずるほど長く仕立てられている。 そのせいで裳裾を踏んでつまずき、お皿を割ったり鍋をひっくり返してしまうこともままあった。 「今すぐ荷物をまとめて出ていきなさい」 「わたくし、自分でも気づかぬうちにまた何か粗相をしでかしましたか? メイドとして至らぬ点がございましたら、何なりと仰ってくださいませ」
暴君ダリオンは、大軍を率いて帝都エルドランドを陥落させた際、血気盛んな兵士たちに略奪を許し、宮殿を乗っ取って王家の墓を破壊した。 さらに、庶民を虐げて贅沢な暮らしをする貴族や、財力でもって政界を牛耳る悪徳な商人どもを捕らえ、あらぬ罪状を突きつけてことごとく処刑した。 火の手が上がる城下から荷車を引いて逃げ延び、着の身着のまま焼け出された難民たちの中に、まだ年端も行かぬ少女の姿があった。 それが、幼き日のエロナだった。 「今日からわしがおまえのご主人様じゃよ。たっぷりと可愛がってやるからの」 賢者グリフィムは、お腹を空かせて路地裏をさまよっている少女を見つけると、ついつい声をかけずにはいられなかった。 ポケットからこっそりお菓子を差し出して、手をつないだまま自宅へ連れて帰った。 それからというもの、エロナはお仕着せの服を与えられて召使いとして働くようになった。 家事手伝いのかたわら、読み書きやそろばんを習い、せっせと刺繍を編んで小遣いを稼いだ。 癖のないさらさらとした髪と、透き通るような美しい瞳を持っており、南方の生まれにしては肌の色が薄かった。 いつしか思春期に差しかかるにつれて、形のよい控えめな胸や、しなやかな腰つきもあらわになってきた。 おへその下に子宮の形をかたどった淫紋があり、娼館に売られて焼き印を捺された奴隷だったとも、魔除けのために入れ墨をほどこす長耳族の末裔だったとも言われている。
「その昔、この剣をもって魔王を倒した勇者は童貞であった」 賢者グリフィムは、暴君ダリオンから下賜された宝剣を手に取ると、ろうそくの明かりにかざして真贋を見極める。 「また処女とは、恐怖や暴力に支配されぬ強い女性を表す言葉であった」 処女のまま竜の子を孕んだ女神ヘロイヤは、いまや神話と化した建国史の黎明期において、本当に実在したとされる最初の女性指導者だ。 童貞を殺すなかれという古くからの言い伝えは、魔獣と交わって双子を産んだ女神ヘロイヤが、王になるべき者は一人しかいないと告げて兄弟のうちの片方を捨てたことに由来する。 「黄金の夜明け以来、いくたびもの戦乱を乗り越えて千年あまりの歴史をつむいできた帝国は、今まさに滅亡の危機を迎えておる」 ――なぜだかわかるか? という問いかけに対して、エロナは洗い終わった皿を拭いて棚に戻しながら、しばし考えあぐねて曖昧に首をかしげる。 「童貞が死んでしまったからじゃ」 「……童貞が? 皇帝陛下ではなくて?」 「もはや皇帝など立たずとも帝国は倒れぬ。しかし、童貞なくしてふたたび帝国を建てることはできん」
エール帝国はかつて、駒のように組織化された軍隊と、鋼鉄で鍛えられた武器でもって、またたく間に大陸全土を席巻した。 そして、服従させた属国から人質を取って城下に住まわせ、家臣として取り立てたり、また逆にこちらから姫を差し出して結婚させた。 これが、帝国各地の王侯貴族が一同に会して票を投じる評議会制度の始まりだ。 こうした昔ながらの伝統は、時代の移ろいとともに形を変えて当時もなお残っており、爵位を与えられて地方の州を治める諸侯たちは、皇帝陛下へ謁見して便宜を図ってもらうべく、領主が交代するたびに挨拶を兼ねて代表団を送った。 敵対する国家の指導者をすげ替えて傀儡化することで、人間のみならず多様な種族からなる巨大な帝国を築き上げた王朝にとって、一夫多妻や生前離婚を認めない処女信仰の考え方は、一族による支配体制を敷くうえで都合がよかった。 やがて、たび重なる断種により男系の血筋が途絶え、他家から養子を取って新たな皇帝を擁立したことをきっかけに、帝国における宗教的な指導者となった聖女が、女神にかわって統治権を与える仕組みができあがる。 次こそは我が子を玉座につけようと権力争いを繰り広げる貴族たちが、話し合いのすえに仕方なく妥協した結果、皇帝みずから後継者を指名することはできても、評議会の合意がなければ認められないという法律が作られる。 このようにエール帝国の歴史は、有史以前のエルドランド王国時代から、神権による帝政が確立されるまでの前半期、そしていくつもの王朝が乱立する後半期と大まかに区切ることができる。